自信と後悔は似ている。
自信について、私は長年にわたり、さんざん考えてきた(参照)。
で、ひとまず得られた自分なりの結論は、以下のとおり。
・自信は、あれば便利。
・「ある」と言ってみせることが必要な場合がある。
・あるように見せることで、他者を安心させられる。
・実はなくてもかまわない。
たとえば私が英語を使う場面で、堂々とふるまうなど「自信がある」に属する行動をとる。
それによって、入国がスムーズになったり、仕事をもらえたりするから、便利。
逆に自信がない素振りを見せて、相手に不安を与えれば、厄介なことが増える。
でも、そのことと、私が自分の英語に自信を持っているかどうかは別の話。
私はたぶん一生、100%「自信がない」ままだけど、だからと言って英語をやめるわけでもないから、どっちでもいい。
「自信は男の化粧」という帝王の名言(笑)がある。
私はこれを「人前に出るときに、身だしなみとして着けるもの」と解釈している。
いくら本人が「別に“すっぴん”でも実力に差はない」と言い張っても、少なくともプロとして仕事をする場面に“すっぴん”で現れるのはまずい。
実際のあるなしはともかく、自分の好みもともかく、他者に対するマナーとして、自信を纏う。
「そんな面倒なこと、したくない」と言う人もいるだろうし、私も以前はそうだったような気がするけど、それだけのことでいろんな面倒が省けるならむしろ助かると今の私は思う。
後悔も、同じようなもんかな。
・後悔は、あれば便利。
・「ある」と言ってみせることが必要な場合がある。
・あるように見せることで、他者を安心させられる。
・実はなくてもかまわない。
いや、「ある」を「ない」にしても成り立ちそうだな。
・後悔は、なければ便利。
・「ない」と言ってみせることが必要な場合がある。
・ないように見せることで、他者を安心させられる。
・実はあってもかまわない。
共通しているのは、こうした「ある」「ない」が私の事情に影響しないこと。
どっちでもいいということ。
そして、世の中は気まぐれに「ある」「ない」を要請してくるので、それに対して私も気まぐれに応じたり応じなかったりするということ。
たとえば、私の博士号取得は父の生前にギリギリ間に合わなかった。
そのことについて、世の中は「後悔アリ」を求めてきたり「後悔ナシ」を求めてきたりする。
そのたび、私は「ある」を演ったり「ない」を演ったりする。
それだけのことでいろんな面倒が省ける。
私はたぶん一生、100%「ない」ままなんだけどね。