なんだかおもしろいとこにいるな、という話。
不思議なご縁で、本来なら縁のなさそうな場所に流れ着いて2ヶ月。
ここで私が見聞きすることにどんな意味があるのか、現在進行形で考え中なのだが、少なくとも視点の一つとして「言語に興味のない人たちの日常を観察する」というのがありそうな気がしてきた。
たとえば、日本語。
非母語話者が4割という環境。
彼らの習熟度はもちろんそれぞれだが、CEFR(参照)でいうところの B2~C2という感じ。
母語話者たちはそのことをまるごと無視して“ネイティブ日本語”をガンガン浴びせかける。
「容赦なく」とも言えるし、「対等・平等に」とも言える。
たとえば、英語。
英語母語話者との接触はなし。
英語力については、非日本人の方が日本人より高い。
印象だけで言うと、非日本人の英語は B1~C1、日本人の英語は A2~B2 ぐらいかなぁ。
だから、たとえば「日本人学生が、留学生に日本語で英語を教えてもらう」という場面に遭遇したりもする。
がんばれ、ニッポン。
日本人メンバーの外国在住経験や英語使用経験は、おそらく国内の日本人の平均より豊富なのだが、いかんせん彼らの目的は言語習得とは別のところにあるので、いくら経験を積んでも第二言語の習熟度にあまり影響してこない。
つまり、どんなに長く外国に住んでも、日常的に外国人と交流する機会があっても、英語がうまくなったりはしない。
いわゆる4技能的分類についても、特にどれが得意というのがなさそう。
おそらく本人たちに聞けば「読み書きはいいけど、聞く話すが…」とかなんとか言うのだろうけど、私が見聞きする限り、これは正確ではない。
どの技能にも改善の余地が多分にある。
こうした環境で日本語母語話者たちが使う英語は、驚くほど堂々としている。
念入りに用意したであろう公の場の書き言葉でさえ、標準的でない英語が多くの人の目にさらされている。
チェックが入るのは内容についてだけで、英語を訂正されることはない。
音声面では、たとえばいわゆるカタカナ発音でも、このコミュニティのメンバーにはかえってその方がよく通じるから、問題にならない。
そういう英語がみんなに使われ、ときには褒められ、お手本や事例として受け継がれ、強化されている。
このコミュニティ内では、日本語由来の英語風言語が独自の進化を遂げている。
誤用分析系の英語のセンセイなら、黙っていられない事態だろうと思う。
国際派の学者なら、日本人の英語力の低下を嘆き、諸外国に置き去りにされる将来を憂うのだろう。
英語教育は急いで改革する必要がある、という発想にもなるだろう。
でも、私は「むしろその反応ってどうなの?」と思う。
そう反応したくなる気持ちはわかる。
私を含む、言語に対する興味の強い人々は、このコミュニティの英語を見過ごせないのだ。
「ジスイズアペン」的発音は耳に残るわりに理解しにくいし、”What’s happen?”などの文字列を見るとどうしてもモヤモヤする。
大きなお世話だと知りつつも、つい何らかのお手伝いを申し出たくなってしまう。
彼らも、折りに触れ「英語やんなきゃとは思うんですよね」みたいなことを言う。
半分本気で、だと思う。
しかし、私が彼らの言葉を真に受けておせっかいを発動させることはない。
それは、彼らにとって言語が重要でないことを知っているから。
彼らには言語を学ぶ暇などないから。
彼らには、言語の難を補って余りある、他の才能、技術、知識があるから。
このコミュニティの人々は、この言語感覚のままで日本の産業を牽引し、経済や社会に大いに貢献しているから。
英語教育に関わる人には理解しがたい状況だろう。
たとえば多くの英語のセンセイは、英語が好きで、自分と同じように他の人にも英語を好きになってほしい。
英語について嬉々として話す人たち同士で、英語がなければ得られなかった経験を語りあい、さらに「英語を教えてほしい」なんて乞われでもしたら舞い上がって、この世は英語を学びたがっている人だらけだと錯覚してしまうかもしれない。
逆に、自分の専門をないがしろにされれば気分が悪い。
「英語なんてどうでもいい」と言われると腹が立つ。
英語教育の伝道師なら説教したくなるし、販売員なら教材を売りたくなる。
それで、「英語ができたらこんなに素晴らしい」とけしかけたり、「英語ができないとこんなに悲惨」と脅したりするのだろう。
たぶん、日本の英語教育問題の多くは、それでは解決しないんだと思う。
だから現状、こういうことになっているんだ。
学ぶ必要が感じられないところに、学びは起きない。
啐啄(参照)が生まれない。
時間やエネルギーに限りがあれば、何を学び、何を学ばないか、選ぶのは当然のこと。
「英語が上達しなくても構わない」という世界がある。
そこには、言語というものに興味を持たない人が住んでいる。
彼らには「英語を学ばない」という選択肢がある。
見方を変えれば、それは実に恵まれた世界なのである。
アメリカのアメリカ人みたいなもんだ。
それは、英語好きたちの集まる世界とは交わらない。
幸運にも私はその両方の世界を間近で観察するチャンスを与えられているのだと思う。