Demotivating

みんなのやる気が急速に失われていく事例について。

あるオンラインの日本人コミュニティーで、新しいプロジェクトが始まった。
メンバー発案で、リーダーがGoを出してスタート。
それ以降もプロジェクトの運営はすべてメンバーに任され、リーダーは途中で介入しない。

これまで、このコミュニティーの活動はかなり純度の高いトップダウンで、リーダーが意思決定をして「このやり方でお願いします」とメンバーに伝達する形になっていた。
今回の新プロジェクトはアクティブな群の上層にあたるメンバーが、おそらくはオフ会などを通じて自信をつけ、メンバー主導・メンバー完結のアイディアを出してきた。
ま、今の日本によくある風景って感じよね。

最後の最後はリーダーが通すのだが、それはあくまでもシステム上の事情。
リーダーは中身を確認せず、したがって一切の口出しをせず、メンバーから上がってきたものをそのまま通すことが告知された。
「だから提出する時点で、もう誰にもチェックしてもらわなくて大丈夫な状態にまで仕上げておいてください」と。
メンバーはこのプロジェクトにおいて自由を与えられ、そのぶん責任を負う、というわけで、まぁ言ってみれば当たり前のこと。

スタート直後は、新規性もあってかスムーズに進んでいたようだった。
発起人ははりきっていたし、発起人に近そうなメンバーがサポートに入り、ムードとしても明るく楽しそうだった。
高校生の文化祭みたいなノリかな。
「自分たちで考えたことを実際にやる」「先生の手を借りず、全部自分たちでやる」って、開放的でうれしいんだよね。

私はその後しばらく離れていて、プロジェクトのことも忘れかけていたのだが、先日ふと思い出して様子を覗いてみたところ、ありゃりゃりゃ、ってなことになっていた。
以下、原因と思われることを並べてみる。

・新規性が消え、ニュース性、ワクワク感がなくなった。
・発起人ほか数名のメンバーしか参加していない。
・早々にリーダーの介入があった。
・ルールや仕組みが複雑になった。

新規性については、時がたてば消えるものだから、「目を引かなくなる、慣れる、飽きる」ということ自体はどうしようもない。
おそらく問題は、新規性によって起きた初期の盛り上がりの内容を見誤り(例:「世紀の大発明!」)、熱が冷めた後に備えるとか、第二の盛り上がりを起こすとか、先の展開を見越した案を用意できなかったこと。

メンバーの“血が濃く”なっちゃうのも、ありがち。
身内で盛り上がるということは、同時に排他的な雰囲気を生む危険性がある。
圧倒的な人気者がいるなど、放っておいても広がっていくような集団ならともかく、普通はよほど気をつけて工夫しないと、外から新しい人が入ってくるのは難しくなる。
「『どなたでも、お気軽にどうぞ』って看板だしてるのに、なんでだろうねぇ」ってなことになる。

ま、でもこれはしょうがないかなと思う。
メンバーというものは、往々にしてコミュニティー全体の来し方行く末が見えていない。
それが主導するとなれば、見積もりは甘く、偶然に左右されやすく、行き当たりばったりで危なっかしい。
でも、だからこそ奔放でおおらかで、柔軟になれるのだと思う。
その自由な土壌でなければ生まれてこないアイディアがあるのだから、それはそれでいいのだ。

「ありゃりゃりゃ」の最大の要因は、「早々にリーダーの介入があった」。
「すべて任せます。チェックしません。そのかわり責任もってやってください」と言った舌の根も乾かぬうちに、リーダーが取り締まりに乗り込んできた。
もちろん、黙って見ていられない何かがあったんだろうとは思う。
ずっとトップダウンでやってきたリーダーにとって、許しがたいこと、迫り来るカオスに呑み込まれる恐怖など、我慢できない何かがあったのだろう。
メンバーたちがわいわい盛り上がっているところへ、突然リーダーが笛を吹いて活動を止め、頼みもしないのに“お手本”を示し、「はい、再開」と言って去っていった。
そして後日、ルールを定め、手続きを複雑化して「このやり方でお願いします」と指示を出した。

権威がみんなのワクワクを消し、アイディアをしぼませ、動きを封じる。
こんなことが、“多様性”な自治体や、“リーダーシップ”な企業や、“アクティブなんちゃら”な教室など、いろんなところで起きてるのかもしれないな。

こんなアナロジーが浮かんだ。
「大人は見にこない」という条件で、なんにもない原っぱを与えられた子どもたちが遊びを生み出した。
子どもたちがキャッキャ言い出した頃、どうにも心配になった大人が様子を覗きに来て、ショックを受けた。
大人は「安全」という“正義”のもと、原っぱを区切り、ネットや防音対策を施し、文字だらけの看板をそこらじゅうに立て、「はい、自由に遊びなさい」。
子どもたちはポカン。
なんだか悲しい気持ちにもなってくる。
原っぱには誰も寄り付かなくなる。
大人は「子どもに原っぱを与えたけど、やっぱり使いこなせなかった」と言う。
「やめろとは一言も言っていないし、むしろ応援していたのに、子どもたちが頑張らなかった」とも言う。
成果のなかった新システムに比べ、管理、監視、統制、規範によって品質が保証される旧システムの方が優れていると確信する。

これ、保守的で新しいものを嫌うタイプの人たちにとっては、最高のシナリオだよね。
彼らは昔なら「断固反対」で阻止しようとしただろうけど、いまどきそれは分が悪いことを知っている。
だからひとまず黙って導入を許し、不備が生じ始めた頃に「ちょっとだけ」を装って介入を始める。
あとは正当な理由を掲げて介入を広げ、やがて制圧する。
約束違反や裏切りと騒がれないよう、新規性が薄らいだ頃を見計らってプロジェクトの無謀さや失敗を大きく報じ、人々の不安を煽り、「だからつぶすしかなかった」と苦渋の決断、断腸の思いを語り、自らの正当性を示す。
反省を生かし、二度とこのようなことがないよう、今後は入口でしっかり阻止することを宣言する。
お見事。

新しいことをやりたい人は、その上を行かなくてはいけない。
直接対決を仕掛けたり、保守派を締め出して勝手に計画を進めたりしていては勝てないのだ。
謙虚に土壌を耕しつつ、ご意見やご機嫌もうかがいつつ、一方で仲間とはしっかり連携して意思を確認しあう。
介入に対しては即座に、敏感かつしなやかに対応し、拡大を防ぐ。
なるべく早い段階で、“話のわかる大人”を味方につける。
面倒くさいけど、やりたいことをやるためだから、しょうがない。

私自身は「そんなに面倒くさいなら、もういいや」と投げちゃう質だけど、やっぱりそれだけでは渡っていけないこともあるわけで。
また一方では、年齢や経験を重ねるにつれ、自覚のないまま、気づいたら大御所気取りで煙たがられる存在になっている可能性もあるわけで。
せっかくこういう事例を観察できたんだから、よく肝に銘じておこう。

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