“日本の恥”

先日の記者会見について考える。

アメリカ人は「アメリカ人として恥ずかしい」と言い、日本人は「日本の恥」と言う。
どっちにとっても恥ずかしいことなんて別になかったと思うけど、同族嫌悪ってそういうこと?
どっちのみなさんも、言い過ぎ。

それはともかく、今回の件で新しく考えたこと、みっつ。

その1:「日本人は日本人の英語に厳しい」について。
これは前々から感じていたことだけど(参照1 参照2)、当てはまらないケースが見えてきたので、修正することにした。

「英語に対してコンプレックスをもったことがある人は、自分と似た英語に厳しい」。
あら、じゃあ結局これも同族嫌悪なのかしら。
コンプレックスの第1位は発音、次いで文法。
現時点で悩んでいる人もだけど、コンプレックスを「克服した」という自信がある人はより当たりが強いかも。
コンプレックスと誇り、劣等感と優越感、強すぎる憧れは、こういうとき同義語だからね。
あ、美容整形みたいなもんかしら。
気にしているところをどアップにされるのは、たとえ他人のでも嫌だし、キレイになったらなったで見せびらかしたいし。

逆に英語にコンプレックスを感じたことがない人は、他の人の英語に寛容で、仮に理解しにくかったとしても、なんらかの気遣いや工夫を試みると思う。
たとえば発音でいうと、実際のところ、聞き慣れないアクセントや解析不可能な発話に出くわすことはあるんだけど、それを全面的に話者の責任とみなして「正しくないからわかりませーん」みたいなことをあからさまにやるとは思えないんだよなぁ。
聞き取りにくいことを悟られないようにやんわり確認するとか、なるべく意図を汲むとか、なんかするじゃん?

日本の英語教育関係者の反応はどうなんだろ。
言語学者の場合、興味の対象は人じゃなくて言語だから、「面白い例をありがとう!」てな感じかしら。
教育者なら、「うちのコがお騒がせしてすみません」とか?
まぁ、教育者にもいろんな人がいるしね。
攻撃や取り締まりを好む人はもともと苦手だけど、そこにコンプレックスの臭いがしたら、それはちょっと、その、ほら、お若くて、おキレイで、なによりですね、ってことで。
おほほ。

その2:音声レベルでの誤用分析について。
Error Analysis といえば、1960-70年代にイギリス人の Corder が唱えて一世を風靡した、あれ。
それから50年が過ぎ、アメリカで教育とコミュニケーションを学んだ身としては、「ま、そういうのを経て今の英語教育(応用言語学)研究があるんだからねぇ」と、昔の功績として称えることはできるけど、なんというか、それ以上の感想はない。

ところが世の中には誤用分析のファンが多いらしく、今回も件の発音に対して、「『ホーカス』だから/f/だ」「『トレード』の/l/だ /r/だ」「いや、『ト』の母音だ」などの分析があちこちで自主的に行われ、しかも、どの指摘も概ね正しい。
これはこれで、すごいことだよね。
現代日本人は全般的に英語の音に敏感で、中には音声的な分析までできる人が結構いる。
音声学をかじったっぽい人も。
英語を使える人より、誤用を指摘できる人の方が多いんじゃないかと思うくらい。
日本の英語教育にありがちな、そんなはずじゃなかった謎の展開の一例かもしれないね。

私の周りにいる、日常的に英語を使っている人たちは、たぶん分析はしないだろうな。
件の発音を聞いて、もちろん違和感を覚えるだろうけど、どこがどう“誤って”いるか細かく説明するなんて、できない気がする。
する必要もないし。

その3:根本的な問題について。
同じことを考えている人がいるだろうと思って、英語と日本語、ちょっとだけ中国語の情報を探したけど見当たらなかったので、いちおう書いておく。
今回の件で私がいちばん重大な問題だと思うのは、ジャーナリストとしての彼の英語である。

アメリカで学部と修士を卒業し、以後約20年ずっと大統領の近くで取材をし、単独インタビューという“勲章”さえ持っている人らしいから(参照1参照2)、あの英語は“フェイク”なんじゃないかと勘ぐってしまう。
でもまぁひとまず本物だと信じることにして。
どーでもいいけど、せっかく名乗ったのにカブせられ、一部で「首相の名前を言った」と誤解されていることは気の毒。

あのくらいの英語ができれば、日本では地域や基準によって上級者に入る可能性がある。
もちろんアメリカでも、特に都会なら生活に支障はない。
彼が、たとえば芸術家であるとか、飲食店の経営者であるとか、はたまた専業主夫であるとか、あるいは人との接触を必要としない職業の人だったなら、むしろ「英語、お上手ですねぇ」と言ってあげてもいい。
でも、彼はそうじゃない。
彼は言葉で勝負をする、プロなのだ。
彼の立場なら、「お上手ですねぇ」なんてもう誰にも言わせないぐらい、当たり前に上手でなくてはいけない。
勇気や大胆さを褒められている場合じゃない。

あの英語で、たとえばゴリゴリの保守派と腹を割って話すことができているだろうか。
「おぅ、ジャパニーズさんか。どうだい、この国はいいだろう?」という態度に出られたとき、どう対処しているのだろう。
外国人の少ない地域の人、社会経済的地位の高くない人、独特な思想を持つ人の声を聞こうとしているだろうか。
アメリカが、見えているだろうか。
一人前のプロとしてネイティブの記者たちと対等な立場で取材をし、このマスコミ受難の時期を共有する戦友として認められているだろうか。
自分の手で情報をもぎとって母国へ届けるという気概はあるだろうか。

彼にとって英語は、「必死で上手くなるしかなかった」と過去形で語られるべきものなのに、そこに至っていないことが現在進行形で自覚されているかどうかすら怪しい。
どうして学ぶことをやめてしまったんだろう。
もったいない。

私が彼のコーチだったら、と考える。
仮に、「仕事で相手と話が噛み合わないので、英語を上達させたい」という人だったとして。
ふむ、そうねぇ。

まずは場面の解釈から。
報道では “mock(笑いものにする、バカにする)”と表現されたりしているけど(参照)、公平に見て、相手の対応は普通だった。
むしろ何とかコミュニケーションを成立させようと協力する態度も見られた。
彼自身も、実際にあの場にいてそう感じたのではないかと思うが、それを素直に客観的に認められるかどうか、確認。
(ところで、彼がこの報道について自分の見解を表明したら記者として株が上がると思うけど、今のところそういうのはなさそう。もったいない。)

次に、よかったところ。
あの大舞台で、本人は比較的リラックスしており、相手の発話を理解している旨をちゃんと表現できている。
表情やジェスチャーの使い方、切り返しの仕方は、さすがアメリカ歴が長いだけあって、こなれている。

で、いよいよ英語の話。
相手は「日本」という語を聞き取った時点で、予想される話題を絞り込んだ。
「経済」や「貿易」は、当然その予想の範囲内にあっただろう。
自ら、“tariffs on [Japanese] cars(自動車関税)” のネタを振った。
にもかかわらず、無理解の提示(“I really don’t understand you.”)、確認の要求(“Trade with Japan?”)が起きている。
このことが読み取れるかどうかをチェック。
それから、修正点を挙げてもらって、優先順位を考え、「もう一度チャンスがあったら?」へ。

他の記者による質問で、「良い質問だな」と思うものを動画で探してきて、ディクテーションまたは文字起こし。
これはたぶん得意。
で、音読→構文と内容の分析→評価→それらを元に作文→自分の書いた文を評価→音読と録音→評価。
とりあえず思いつくのはそんなところ。

長年やってきたことを自ら否定しなくちゃならない部分も出てくるだろうから、まぁ辛いよね。
でも、覚悟を決めてがんばる学習者なら、応援します。

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