「自分らしい英語」について考える。
「その人らしくない英語」をどうしたものか、少し前から悩ましく思っている。
たとえば誰かが書いた英語の文章をチェックする。
「これ、どっかからコピってきたな」という文や、取って付けたとしか言いようのない表現が混ざっている。
ダマになって、馴染んでいない。
あるいは誰かが書いた文章に対して、部分的に修正案を出す。
「あくまでも提案だから、自分で取捨選択してね」「全体を通してよく読んでね」と伝えるのだけれど、そして「はい、わかりました!」とは言うのだけれど、多くの場合、私の修正案はヌルッと採用されてしまう。
提案としていくつかの選択肢を並べたものや、疑問を呈したものでさえ、そのまま丸ごと使われていたりする。
許可もなく公の場に載せているのを発見したときには、やんわりと「光栄ですけど、あれはあくまでも修正案なので、公開用としては不十分ですよ」と促したが、「なるほど、そうなんですねー」というだけで、一向に引っ込める気配がない。
とても、とても、嫌な気分になる。
ガッカリするし、うんざりする。
ピンと来ない人は、一度、日本語で考えてみてほしい。
たとえば、「子どもの作文の一部を親が書く」みたいなこと。
よっぽど巧くやらない限り、先生に見破られるでしょ。
大人が書いた部分が浮き出すというか、ねっとり光るというか、臭うというか。
とにかくどうにもごまかせない存在感を放つでしょ。
それ以外の部分の稚拙さが際立って、ギャップがエグいでしょ。
アメリカの雪国に暮らす私は、「春の道路みたいだな」と思う。
冬の間に撒かれた融雪剤の塩でアスファルトがところどころ陥没し、雪の季節が終わると道がガッタガタになっている、あれ。
そのくらい文章が凸凹で、スムーズに読み進められないのだ。
たとえ埋めても、埋めた痕ははっきりと残る。
ま、ね。
そもそも凸凹が認識できるなら、コピペや他人の修正案の鵜呑みで済ませようとは思わないよね。
凸凹が見えないから、自分の文章の中に自分らしくない部分が混入していても平気だし、貼り付けたことがバレないと思っているんだよね。
もし自分に力が十分あれば、自分で書く。
ないから、誰かに代わりに書いてもらいたい。
わかるよ。
元の文章を読んでも、細かい意味やニュアンスまでは汲み取れない。
自分の文章のレベルとの差がわからない。
でも自分ではそこそこイケてると思っている。
いずれにせよ、一朝一夕に、劇的に英語力が伸びることはない。
だから借り物でパパっと手軽に済ませたい。
わかるよ。
でもね。
その考え方で、英語が上手くなることはあり得ない。
それに、仮に悪気はなくても、その手の考え方は剽窃に直結するよ。
モラルに反しているし、借用元の書き手に失礼だし、できあがった文章はひどい。
あなたには見えなくても、見る人が見ればバレバレ。
さらっとカッコよく決めたつもりかもしれないけど、めちゃめちゃダサいよ。
あなたは自分の価値を下げ、英語力が足りないことを露呈し、信用を失う。
一瞬のラクができる以外、なーんにも良いことはないんだよ。
はぁーあ。
ひょっとして、「他の人の真似をする」「表現を盗む」というような言い方も、通じにくくなってきているのかなぁ。
「自分らしい英語」は、「正しい他人の英語」なんかより、ずっとずーっと価値が高い。
下手でも間違いだらけでも、今のよちよち歩きみたいな自分の英語をもっとかわいがってあげてほしい。
イライラしないで、簡単に捨てないで、長い目で見て、大事に育ててあげてほしい。
そこでかけた愛情は、いずれ自分に返ってくるから。