急に思い立って、庭を散歩してみた。

「紅葉を愛でる」ということが、自宅でできるようになって久しい。
多くの人にとって、計画を立て、車にでも乗って、どこかへ出かけてようやくできる贅沢なレジャーであることを忘れている。
だから、部屋の窓からなんとなく紅葉の気配を感じていても、「ま、今日じゃなくていっか」と思ってしまう。
なんなら、「ひと秋ぐらい見逃してもいっか」とさえ。

それはもったいないだろう、と、当たり前すぎるほど当たり前なことにようやく気づく。
後々、ここでの暮らしが遠い記憶になったとき、私はこの秋の風景をナマでいつでも好きなだけ見られるありがたみを思い知る。
そのときの私に、「なんであのとき、もっと見ておかなかったのか」と叱られる。

そこまでわかっても、まだ「明日でもいいじゃん」と思う。
「もう夕方だし、今日は曇ってるし」。
私はどこまで怠惰なのか。
少し苛立って、やや強引にコートを羽織って庭に出てみた。

紅葉は、ピークと散りはじめが混在していた。
はじめて見るにはちょっと遅い。
それでも間に合ってよかった。
風が吹いて枝が大きく揺れても、まだ葉は降ってこない。

この庭に私の知らない木はない。
落ち葉の広がりようにも見覚えがある。
芝の緑、幹の黒、葉の赤、橙、黄色。
ふさふさのしっぽで走り回るリス。
知ってる、知ってる。
いつもと同じ秋。

歩きながら、今ここにある光景を、過去に自分が撮った写真と照合していた。
そして、枝を失っている木、切り株になった木、幹の太くなった木、背の高くなった木に気づく。
ふたつと同じ秋はないのだった。
うっかりしていた。
時が過ぎていたこと、それを感じなくなっていたことが怖くなった。
でも、それもすぐにどうでもよくなった。

光景の一つ一つに「今までありがとう」と思った。
あまりにも自然に思ったので、少し驚いた。
でも、本当にそうだなと思い直した。
私はこの環境に見守られ、支えられてきた。
お世話になりました。

いちばん好きな木の下で足を止める。
この大きさ、この色、かたち。
広大な庭には数えきれないほどの木があるけれど、やっぱりこの季節のコイツの美しさは格別。
ずっと覚えていたい。
でも、きっと私は忘れてしまうのだろう。
ごめん。

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