「元号が変わる予定」について。
帰国中、電車内である広告が目に留まった。
いわゆる“働き方改革”とかICTとかに絡めた商品の紹介。
要するに「この商品を使えば、最新の働き方ができますよ」というもので、それ自体はどうでもいい。
ハッとしたのは、そのコピー。
「もう平成も終わるのに」と書いてあった。
この体験について、日本にいる間に家族や友人と話してみたが、いまいちピンと来ていない様子だった。
平成になってしばらく経ってから、時代遅れな物事を指して「昭和」と呼んできたことや、その文脈での「昭和」が「平成」に取り替えられることなど、「時代の変遷」的な話にはなるんだけど、私の感じた斬新さのようなものは共有されていないみたいだった。
そうかぁ。
日本の人たちは「元号が変わる予定」を、もうすっかり受け入れているんだ。
改元といえば、天皇の交代や災害、戦乱など、これまでは出来事に追随するかたちで行われるものと決まっていた。
それが、「来年のこの日」とあらかじめわかっているわけで、これは日本人としてとても不思議な感覚だろうと思っていた。
そうでもないみたい。
もちろん、天皇陛下が退位され、元号が変わることは私も知っていた。
でもそのことが、日本の人たちの生活に“予定”としてすでに組み込まれていて、電車内という誰の目にも触れる場に置かれているだけでなく、広告という機能的な媒体において前提というか前フリというか、ものすごく軽い扱いを受けていることに衝撃を受けた。
あまりの新しさに頭がついていかなかった。
これが日本にずっと住んでいる人にとって「どうってことない」のだとすると、ワタシ的には超特大のウラシマなんだけど。
伝わるかなぁ?
そこから、芋づる式にいろんなことにどんどん気づいた。
たとえばカレンダーや手帳などの印刷物をつくる人たちは、「ここらへんで新元号が発表されるから、その後こうして、こうしよう」という“予定”を、もう立てているのだろう。
お役所など、元号を多用している組織には、混乱やミスの“予測”があり、それらを回避するための“予定”もあるのだろう。
カウントダウンみたいな面もあるのかもしれない。
事が起きてからバタバタと対応するより、“予定”をもとに計画を立て、準備期間を経て実施、という方が助かることは多いのかもしれない。
いや、どれをとっても私にとってはいちいち驚きなんだよ。
みんなが驚いていないことに驚くよ。
私は元号を使う機会がほとんどなく、たまーに書類に書き入れる場合には早見表を検索して調べないと今が何年かわからないレベルなので、遠い存在であるぶん、かえって感傷的になりやすいのかしら。
たとえるなら、「もうすぐ沈む」といわれている島の住民が意外とケロッとしていたら、なんかちょっとモヤモヤしちゃう、みたいなことかなぁ。
ここから本題…というところで「そんなことよりさぁ」と切り返されたときの、えぇぇ?な感じかなぁ。
歴史的なロマンと、観光地の実用的、商業的な現実とのギャップみたいなものかなぁ。
愛国心的な何かかなぁ。
それとも、「日本人」というアイドルの変貌ぶりにがっかり、の線かなぁ。
私はもう日本カブレではなくなったけど、この手のこととなるとウブでナイーブなところがやけに露呈してしまう。
よくわかんないけど、たぶんなんとなくショックなんだと思う。