条件付き

「条件付きの愛」について、考えてみる。

条件付きの愛 (Conditional love) とは、要するに周囲の要求に応えることと引き換えにもらう愛。
たとえば「しっかりしていて、優秀で、親に迷惑をかけない」を条件に愛情を注ぐタイプの親に育てられた子は、自分が「しっかりしていて、優秀で、親に迷惑をかけない」うちは愛されるが、そうでない場合には愛されないというルールを心得ている。
だから、もし愛されようと思えば、子は「しっかりしていて、優秀で、親に迷惑をかけない」を実行するし、それを実行しない場合には、当然の結果として愛されないものと理解している。
相手の要求が高すぎて持続できなくなったり、相手の要求がコロコロ変わって応えようがなかったりしても、関係ない。
要求の内容や質がどうであれ、それを満たすことに失敗すれば、当然の結果として、愛情は与えられない。
条件付きの愛で育てられた子は、基本的に愛情を求める気持ちが強く、愛情を勝ち取るために周囲の要求を敏感に読み取って応えようとする。
「条件は何か」をいち早く見定め、「いかにしてその条件を満たすか」を考えて行動する。

条件付き出身者が愛情を与える側になった場合も同様。
自分が愛するための条件を相手に提示し、相手が条件を満たしてきた場合にのみ愛情を与える。
もし相手が自分の愛情を欲しているのなら、相手は条件を満たす行動を当然するはずだし、それをしないのならば、つまり相手は自分の愛情を求めていないのであり、条件を満たしていないのなら、その人は自分の愛情を注ぐに値しない。
理路整然で感心しちゃうけど、でも根本的にちょっとね、ということになる。

で、まぁ一般的には「無条件、無償の愛 (Unconditional love) の方がいいよね」って話になるんだけどさ。
なんでそれが一般的かというと、たぶん実際には逆で、条件付きが多数、無条件が少数だから、ないものねだりが起きてるんだよね。
なんで少ないかというと、それはその、それこそ「無条件」にできる人になるための条件がかなり厳しいからでしょうな。
世の中は不公平なわけよ。

条件付きの人が人生の中盤以降のどこかで無条件に出会うと、衝撃を受ける。
そこまでの人生を振り返って、自分が条件付きの出身で、現在も条件付きであることに気づく。
場合によっては、「無条件を得るための条件は何か」をいち早く見定め、「いかにしてその条件を満たすか」を考えて行動する。
そういうこっちゃないんだけど、なにしろそういうマインドセットはなかなか変えられないから、しょうがない。

無条件で育ってきた人も、人生の中盤以降のどこかで条件付きに出会うことがある。
でも、たぶん逆バージョンほどの衝撃は受けない。
「へー、そうなのかぁ」とは思うけど、「うぬぅ、そうだったのか。知らなかった。では私も条件付きを勝ち取るぞ!」とはならない。
こっちもこっちで、マインドセットはなかなか変えられないからねぇ。

…という長い前置きはさて置いて、だね。
「条件付きの愛」も結構なことじゃないの、と思ったわけだよ。

地位や名声などの名誉系報酬、または金銭的な報酬を目指してがんばるタイプの人たちは、おそらく条件付きマインドセットに支えられている。
強い欲を元手に、その欲を満たすため、努力、行動、アピールを怠らない。
「そうしなければ得られない」「怠ったら失う」という強迫観念は、まあ怖いっちゃあ怖いし、結局満たされない欲を抱えて生きていくのは不健康かもしれないけど、でも、そのために歯を食いしばってがんばり続けるって、やっぱりすごい。
がんばる熱量の飛び火みたいなことが起きて、他の人を焚きつけることもある。
そういうがんばりの連鎖が、世の中をよくしていく。

一方、無条件タイプは基本的に不足感がないので、不具合が起きにくく、少ない燃料でもちゃんと走るので、通常はとてもいいんだけど、なにかの都合でうっかり動かなくなると、もう本当に困っちゃう。
目の前にエサをちらつかせても、なだめてもすかしても、そもそも欲がないから、なんともならない。
そしてそんな状態になってもまだ無条件に愛してくれる人たちに、話を聞いてもらったり、理解してもらったり、助け舟を出されたりした挙げ句、「でも、何がどうなっても、私たちがあなたを愛していることに変わりはないからね」と言われる。
とても温かくていいんだけど、初動に必要な熱量にはなかなか達しない。
たとえば宝を持っていても、持ち腐れたり、埋もれたままになったりしてしまうことになりかねない。

ま、何事も万能なんてことはないわけで。
バランスなのよねぇ。

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