『入試英文法の原点』

『入試英文法の原点』を読んだ。

「読んだ」というか、「解いた」というか。
インタビューの中で紹介されて(参照)、興味がわいたので買ってみた。
1972年の本なので、古本でしか手に入らない。
私が買ったのは1995年の新装29版。

表紙には、タイトルの他に「英潮社が放つ、栄冠への最短コース」「高1の学力で80点はとれる」とある。
ふむ。
あんまり馴染めなそうなカルチャーの気配。

著者の森一郎氏は、ウィキペディアによると『でる単』の生みの親(参照)。
ははぁ、なるほど。
私は塾や予備校に行ったことがないし、『でる』系の参考書を使ったこともない。
馴染めなそうな理由がわかってすっきり。

「本書の使用法―必ず読んでください―」には、「「ぼくはどんなことがあっても1日に1章はマスターしてやろう」とか「あたしは1日2章こなすつもりよ」というように決心し、その予定が完了するまでは絶対に寝ないと再び固く決心されたら、10日もたたないうちに英文法についての自信は、不動のものとまではゆかなくてもかなり実質的なものになるでしょう」とある。
「予定が完了するまでは絶対に寝ない」の部分には下線が引いてある。

というわけで、寝る前に1~2章ずつやってみた。
「誤りあらば正せ」とか「下の注意を必ず見よ」とか「~は言うまでもない」とか、ま、時代もあるんだろうけど、どうも感じが悪い。
親切で熱心な先生なんだろうけど、“大家(たいか)”感が強い。

で、全18章、終わってみたら、なんということでしょう。
「英文法についての自信は、不動のものとまではゆかなくてもかなり実質的なものに」なったような気がする。
休み休みなんで、10日以上かかっちゃったけどね。
以下、私の学習記録。

実際に解いてみると、特に序盤は何を問われているかがわからず、答えが的外れになることがあった。
解答を見れば、「ああ、そういうことか」とわかって、問われていることはわかるようになる。
でも、結構ひっかかっちゃったりすることがあった。
高校生の私は文法が好きだったので、たぶん当時だったらひっかかるどころか、得意としていたような問題。
数十年を経て、いとも簡単にひっかけられちゃうようになったというのは、なかなか感慨深い。

一方、ほとんど反射的に答えが決まって、間違えようがないものも多かった。
このあたり、おそらく高校時代の私は暗記や法則で答えを導き出していたのだろうけど、英語使用歴が長くなった今はもう理屈抜きで「こうとしか言いようがない」という反応をしていることに気づく。
で、解説を読んで改めてカラクリを確認し、「なるほど」と思ったり、「うーん、無理があるな」と思ったり。
これはTESOLで、教員志望の英語ネイティブが文法のクラスを受けたときと同じだな。

あとは、「ま、まあ選べと言われればこれだろうけど、うーむ」とかね。
“点を取るために何かに屈してる感”が、ね。
受験生って、こんなに立場弱いのか。
かわいそうに。
「こんなの使う人いるの?」と思ったり、内容として「こんな嫌なこと言う人いるの?」と思ったり、とかもね。

このへんのところが、「英語科」(参照)や「代数」(参照)で、私が遅ればせながら気づいたことであり、時々聞く、「受験英語は使い物にならない」という英語教育に対するクレームのようなものの根拠なんだろうな。
ふむ。

で、そんなこんなで答え合わせをしながら一通りやると、何を問われているかがわかり、出題の傾向もわかり、ひっかけポイントもわかり、問題に出てくる文を作っている人の性格みたいなものもわかるので、二度目は間違いなく答えられるようになる。
「“公式”を駆使して、例外は暗記」が浸透して、“体質が変わる”ような感覚にもなる。
だから「不動のものとまではゆかなくてもかなり実質的な」自信がつく。
もちろんこの「実質的」は、「受験で確実に点が取れる」という意味でしかない。
それでも少なくとも文レベルでは、いわゆる“正しい”ものが書けるようになるだろうと思う。
ただ、「問題文を作っている人の性格」がうつっちゃうようなところもあって、これに慣れすぎると、自分の言葉を使わせてもらえなくて窮屈に感じるか、どっぷり屈して思考停止になるか、どっちかかもな、とも思う。
受験英語は、便利で不自由なパッケージだったんだ。

ま、ま、ま。
昔の受験英語だしね。
…と思っていたら、偶然にも高校生の英語にお付き合いする機会があり、大手予備校の模試をいくつか解いた。
うううーむ。
『原点』出版から45年が経っても、受験英語に劇的な変化は起きてないってことなのかしら。

高校までに「英語科」で学ぶ受験英語と、大学以降に学ぶ受験後英語について考えたことがあったけど(参照)、あれは甘々だったな。
せっかく頑張って勉強するんだから、もっと受験英語が受験後英語に直結するように持っていってあげたい。
受験システムが改善されるのを楽観的に期待して待っている間にも、受験英語を受験のためだけに詰め込んでいる高校生や、大学生、社会人になってから受験後英語を学び直す人たちがいるのだ。
彼らの時間や労力を、もうちょっと有効活用できないもんかね。

今のところいちばん厄介そうだなと思うのは、「点を落とさせるための文法項目が、まるで重要項目のように扱われている」という点。
ネットニュースの見出しで、どうでもいいニュースが大きいフォントで目立っているのに似ている。
そりゃ受験においては「得点するかしないか」は最重要なんだろうけど、なんだかマニアックな、ある種どうでもいいところをやたら強調してみっちり練習して、よく使いそうなものをサラッと…というのはバランスおかしいでしょ。
「いかにも人工的な文」と「普通に使う文」を横並びにして覚えさせちゃうのも、後々おかしなことになりそう。
ひとまず、この受験用英文法の中身はそのままにしておいて、受験後英語で重要な順に並べ替えるだけでも何か変わりそうな気がする。

ふむ。
奇しくも新年だしね。
今年は、受験生ばりに問題集とか過去問とか、やってみよっかな。

ところで本に書き込まれた記号や下線の引き方から察するに、私のところへやってきた古本の前所有者はとっても真面目な受験生だったようだ。
センスも悪くない。
きっと受験では高得点が取れただろう。
この人は今、英語を使う大人になっているのかしら。

森一郎 (1995) 入試英文法の原点 : 集中講義高1の学力で80点はとれる. 英潮社.

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