傍観者

いろんな考えを表明する人たちのおかげで、自分の考え方がはっきりするよね、という話。

遠くでなんらかの悶着があったとき、私には「自分がそこに居合わせていたら、どう反応するか」と考えるクセがある。
そして、「こうだろうなぁ」を経て、「そうか、私はこういう考えの持ち主なんだ」と改めて気づく。
自分のスタンスが明確になる。

このところ日本で話題になっている一件についても、そんな感じで考えてみた。
で、なぜか引き合いに出されているようなので、ついでにローザ・パークスのことも考えてみた。

私があの時代のアメリカで、あのバスの一件に出くわすことがあったとして。
仮の話が多すぎて訳がわかんないけど、もしそのときの私が白人に生まれていても「けしからん」とは思わないだろうし、黒人に生まれていても「いいぞいいぞ」とは思わないだろう。
「あぁ、始まったのかぁ」と思うぐらいかな。
予感はあっただろうからね。

あえての二択で、賛成か反対かを問われたら、ひとまず「答えられない」を選択して、ローザさんに直接会って話をよく聞いてから決めることにする。
又聞きで判断することは控える。
ローザさんの話を聞く機会がないうちに、何らかの事情でどうしてもどっちかにしなくちゃいけないとなったら、「どっちかというと反対」を選択する。
私は基本的に誰かが独断で起こす混乱を好まないから。
そのタイプの行動を勇気と呼ぶことに抵抗がある。
「そんなことを言っていたら、世の中は変わらない」と叱られたら、「本当にそうですよねぇ」と答える。
本当にそうだから。

たぶん私には何かを劇的に変えようとする気持ちがない。
概ね現状満足で、変化には慎重なのである。
世の中に私みたいなのばっかりじゃまずいけど、幸いなことにそうはなっていない。
その証拠に、“勇気”の人が登場している。
じゃ、まあいいじゃん。

とはいえ、変化は起こるべくして起きるとも思っているので、変化に逆らったりはしない。
仮に自分の望まない決まり方で残念な結果に終わったとしても、そりゃ「イヤだなぁ」とは思うけど、いつまでも引きずることはない。
とりあえず従って様子を見て、必要だと思えば反省して、次の“悶着”に備える。
せっかくこのご時世のアメリカに住んでいるんだから、「イヤだなぁと思いながら暮らす」という体験を生かさない手はない。

変化の前後の、人々の動きに興味がある。
情報はなるべく広く集める。
でも、「決まったら教えて」なのである。
そう考えると、私は几帳面な傍観者なのだなぁと思う。

で、この几帳面な傍観者のおかしなところは、決定に対しては成り行き任せのくせに、そこに巻き込まれている人たちのことは気になってしょうがないのである。
たとえばローザさんの一件でバスのダイヤが乱れ、困っている人たちがいたら、それは放っておけない。
予定のバスが来ないために苛立ったりあきらめたりしている人たちを捕まえては、「いつまでに、どこへ行きたいか」を聞き出して、別の手段を検索して、「こうしてはどうです?」と提案したり、事情が許せば自ら車を運転してタクシー役を買ってでているだろう。
冷めているようで、そういうおせっかいは迷わずやる。

変化は、放っておいてもいずれ起きる。
誰かがわざわざ起こした変化というのは好きじゃないけど、それも自然といえば自然なことなので、受け入れる。
波風はいずれ治まって、革新や鎮圧や元の木阿弥などが訪れる。。
その過程自体に興味はなく、関わろうとも思わないけれど、そこに期せずして巻き込まれ、惑わされている人たちなど、スポットライトが当たっていないところほど、つい目が行く。
そんな感じかな。

ふむ。
ま、だからそういうことなのよね。
教育のバッポンテキなことやルール変更に対して、それを遠巻きに見て、なるべく最新情報を集め、いろんな人の話を聞くようにはしているけれど、それ自体にはあんまり興味がない。
最終的に決まったら教えてくれればいい。
でも、その決まるまでの、混乱の中でさえ、人々の変化は止まらない。
そっちが気になってしょうがない。
今日を、今を生きている人たちが実際にいて、その人たちにとって二度と取り返すことのできない時間が日々刻々と過ぎていっていることが、私には気になってしょうがないのだ。
不安があればできるだけ取り除いてあげたいし、混乱の外側に希望があるなら、見せてあげたい。

変化を起こすヒーローは偉大で素晴らしい。
火種、炎上、喧嘩上等も結構なこと。
でも、私の好みじゃない。
どんなに混沌としていても、あるいは逆にどんなにのほほんと凪が続いていても、それはそれ。
「で、どうすっか」をその時々に考えて動くのが好きなのかな。
受け身っちゃあ、受け身。

ちなみに、「いいですよ宣言」みたいなのも、人それぞれなのでご自由にと思うけど、やっぱり好みじゃない。
考えてみると、私の関わる物事は、「いや、よくないですよ」ばっかりだ。
お互いにパフォーマンスが下がるもんねぇ。
「いいえ、私はパフォーマンスを下げません」という人もいるようだけど、あなたはよくても、私のパフォーマンスが下がるんっすよ。
私の心が狭く、私の力量が足りないのだろうけど、問題はそれだけじゃない。
私のように子どもが大好きで、子育ての経験がない人って、子どもがいる場で子どもを無視することができないのだ。
ここ、子持ちの人たちにわかってもらえてない気がする。

ま、あいかわらず私は低温で、高温な人が苦手ってことでしょうかね。

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