日本式プレゼンテーションのこと。
インタビューの中で、日本人がやる英語のプレゼンテーションが話題に上った。(参照)
スライドを作り込んで、セリフを全部書いて、ほぼそれを読み上げることで行うプレゼンテーション。
で、たとえばその読み上げを途中で遮られたり、セリフに入れていない部分をツッコまれたりすると、たちまち崩れてしまう。
アメリカ人でもスクリプト棒読みはいないわけじゃないけど、歴の浅い学生かな。
大人にはあんまりいない。
ちなみに私は「プレゼン」という略語がどうも苦手。
ま、たまには長いものに巻かれたりもしますけどもね。
インタビューは英語学習の文脈に収めている。
英語に不安があるからスクリプトに頼らざるを得ないという面は確かにある。
同じ人のプレゼンテーションでも、英語でするか日本語でするかで、クオリティにかなり差が出る場合もある。
でも、実は英語の問題じゃない。
英語ネイティブが日本人向けに日本式のプレゼンテーションをすることだって考えられる。
それを、たとえばアメリカに持ち込むと、いかに奇異に映るか。
その綿密で丁寧な準備が、いかに非効率か。
これ、要するに日本の聴衆がいかに我慢強いかということだと思う。
たとえ国外で通用しなかろうと、日本式のプレゼンテーションをおとなしく聴ける人たちが日本国内にいる限り、日本式プレゼンテーションは生き残り、受け継がれていくのだ。
実際、まずいプレゼンテーションを、日本で見る場合とアメリカで見る場合とでは、聴衆の動きに明らかな違いがある。
日本の場合、聴く姿勢を見せている人たちはこまめにうなづいたり、大量にメモをとったり。
聴いていない人たちにしても、目立ちにくい席で居眠りをするぐらい。
とにかくみんなが最初から最後まで静かにしている。
アメリカの場合も、最初のうちはとりあえず静かにしている。
が、「こりゃまずいな」となってきたら、聴衆のほとんどはプレゼンテーションの最中に、お互いに目配せをして肩を上げたり、ため息をついたり。
ひどい場合ならパソコンを開いたり、席を立ったり。
いわば“学級崩壊”状態になる。
特に、主催者などが立場上「聴く気がある」という姿勢を見せる必要があり、“学級崩壊”を察知して助け舟を試みる場合には、プレゼンテーションを一旦停止して、質問やコメントが入る。
でも、まあたいていは助けにならない。
張本人である発表者は、何が起きてるかわかってなかったりするしね。
だって、我慢できないんだもの。
文字でびっしりのスライド、長ったらしい解説、聴衆そっちのけで進むテンポ。
「いつまで続くのか」「早く終わってくれ」という空気がたちこめ、聴衆のストレスレベルがぐんぐん上がっていく。
雨降りにたとえるなら、アメリカでは降り始めから雨宿りや傘を開く動きがあり、日本ではどしゃ降りでずぶ濡れでも、たとえ手に傘を持っていても、ささずにひたすらじっと耐えている、みたいな感じ。
濡れてる自覚さえないのかもしれない。
怖い怖い。
日本の聴衆は我慢強い。
子どものうちからどんなに退屈な授業でもとにかく静かに話を聞く訓練を積まされているし、いざとなったら居眠りするという裏ワザを持っている。
聴いているフリも巧い。
授業や会議や議論が、参加者の経験や考えに何の影響も与えなくても、別に普通。
それらに比べるとプレゼンテーションは短時間だし、後でテストがあるわけじゃないし、ただ黙って座って拍手をすれば終わる。
発表したい人に付き合ってあげる感覚で出席して、波風立てずに退席する。
ま、平和で和やかで結構なことだよね。
でも、そんな「プレゼンテーションごっこ」には何の意味もない。
とはいえビジネステクニック系の薄っぺらでチャカチャカしたハイテンションのプレゼンテーションは嫌だしねぇ。
そういうこっちゃないのよ。
日本の人は、もっといいプレゼンテーションを生でたくさん見た方がいい。
聴衆の中に入って、周りの反応を含めて体験するのがいい。
で、それをやるとなると、日本語しか使えないというのでは厳しい。
私はあいかわらず日本人向けに英語教育を推進する必要性をあんまり感じないけど、「日本語しかできない日本人にはできなくて、英語が使える日本人にできること」がたくさんあるというのは知っている。
インタビューシリーズは、そういう選択肢を並べて見せる場だ。
で、そこからどうするかは知らない。
個人の自由。
やるヤツはどうしたってやるし、やんないヤツはどうしたってやんないしね。