日々いろんな相談を受けていて、思うこと。
英語学習コーチは、いちおうくくりとしては教育なので、教えたり誘導したり促したりする部分が大きいけど、相談の部分もかなりある。
たとえば教室で講義をするような教育と比べると、コーチングの教育はほとんど相談業に見えるだろうと思う。
そのせいなのか、別の何かが作用しているのかはわからないが、私のところにはよく相談者がやってくる。
「話を聞いてほしい」と思ってもらえるのはとてもありがたいこと。
何かに迷ったり悩んだりした人が「こういうとき、誰だ?」と脳内を検索して、私がヒットしたということだもんね。
特に、しばらくぶりにコンタクトしてくる場合は多少なりとも勇気が要るだろうから、私がお役に立つかどうかはさておき、時間とエネルギーの許す範囲で、できるだけ真摯に対応したいと思う。
相談をうまく使える人かどうかは、相談事を持ちかける、その一歩めでわかる。
それまでに、ひとりで、何をどれくらい、どう考えたか。
過去から現在にわたり、どんな人と付き合い、何を大切にして、どういう関係を築いてきたか。
タイミングの良さ、チャンスの捉え方、無駄のなさ。
そのへんのところが、もう、最初の数秒のうちに伝わってきちゃうのよね。
相談上手な人は、相談の最中にも、なんというか、しっかりと心を開いて、たっぷり吸い込んでいく感じがある。
終わる頃には顔つきが変わって、「大丈夫」な感じになる。
このタイプの人たちには、相談の直後や時間が経過した後の動きに共通点がある。
本人の知らないところで、いろんな良いことが起きる。
カミサマにかわいがられている人たちなのだ。
たとえある瞬間にちょっと停滞していたとしても、彼らの人生は結局どうしたってうまくいくので、私のところへ相談に来たかどうかなんて、まるで影響しない。
にも関わらず、彼らは自分の選択や勇気や努力や行動や考えたことを、すっかり棚に上げる傾向がある。
「いやいや、全部自分じゃん」というツッコミを、なかなか受け取らない。
そこがまた、カミサマをキュンキュンさせるんだろうなぁ。
逆に、相談をうまく使えない人は、話すには話すんだけど、すぐに「ここから先は立入禁止」にぶち当たる。
閉じてあるものをこじ開けるわけにはいかないので、その手前までをぐるぐるして、終了。
で、「話し足りない」「言葉が足りない」「時間が足りない」など不足感が残る。
本人としては、それなりに考えて、やる気もなくはないんだろうけど、なんというか、そういうこっちゃないのよね。
このタイプの人たちにもまた、相談の直後や時間が経過した後の動きに共通点がある。
あるいは、いっさい相談をしない人もいるし、人選を誤ってこじらせていく人もいる。
ひと昔前の私なら、おせっかいが発動しちゃってたところだろうけど、今はまったく普通に放っておけるようになった。
遠回りも内部発酵も、残念な結果も、それは人それぞれの選択。
しょうがない。
相談は、うれしい。
相談は、せつない。