翻訳を利用した英語教育の危うさと難しさについて。
「翻訳で英語力アップ」って、本当かな。
嘘ではないかもしれないけど、ちょっと気をつけないといけないかもよ。
翻訳に関して、私は、たまに有償、ほぼ無償のボランティアでやる程度のアマチュアである。
英語教育に関しては、現場と研究の両面で、そこそこ長いこと携わってきた。
そういう立場から、「翻訳における訓練の要素を英語教育に取り入れても、まぁ損はないかな」とは思う。
たとえば第二言語教育の原点ともいえる訳読を翻訳に進化させることで、訳読の長所である文法や読解をゴリゴリやりつつ、両言語を行き来する過程で言語的感性を磨くことができる。
これは、最終的に第一・第二両言語を自然に使える学習者を育てるために有効な手段だと思う。
ただ、英語教育というのは、対象となる学習者においても、身につけさせるスキルにおいても、カバーすべき範囲が翻訳教育よりうんと広い。
翻訳教育で英語を学ぶというのは、たとえて言うなら、自炊ができるようになりたい人が料理人の修行をするようなものだ。
プロの技を教わり日々腕を磨けば、そりゃついでに家でつくるごはんはおいしくなるかもしれないが、果たしてそのために特殊な訓練を受け、時間やお金や労力をつぎこんで、辛い目に遭ったり我慢したりする必要があるかどうか。
専門的訓練は専門家を目指す場合だけにしといた方がいいんじゃない?
学びに無駄はないとはいえ、優先順位や効率が失われて良いわけではない。
危ういのはそこんとこ。
「翻訳訓練をしたら英語力がアップした」は、おそらく事実なんだろうけど、「だから英語力をアップさせたい人は翻訳訓練を!」にはならないんだよ。
また、学習段階や学習者の個性によっては、深く細かく掘り下げるより、広く様々な例に触れ、五感をフル活用し、体を動かし、他者と交わって学ぶ方が有意義なこともある。
まぁ、日本では大学の英文科と英会話学校がそっくりだったりするし、言語学とコミュニケーション学がごっちゃになってたり、英会話の上級コースが通訳養成もどきでお茶を濁していたりもするので、英語教育と翻訳教育が混同されていても驚くようなことじゃないけどさ。
着ぶくれしたコース内容をちょいと剥くと、教える側の個人的な「好き」や「得意」でしかない、っていうパターン。
学習者のためじゃないんだ。
無邪気であれ、無頓着であれ、あるいは作為的であれ、世の中には「英語教育という看板を掲げながら、中身は特殊な訓練のお試し版で、英語教育と呼べるほどの汎用性がない」というものが実在するので、学習者は選び間違えないように気をつけてほしい。
消費者保護法みたいに、学習者保護法があったらいいんだけど、特に大学などでは大人の事情もあってなかなか大っぴらに整えにくいので、ひとまず学習者の方でリテラシーを上げて、自分の身は自分で守りましょう。(参照)
英語教育でいろいろやる中の1つとして翻訳教育的な部分があるのは悪くないが、いかんせん翻訳教育は色が濃すぎるので、薄めて少しぐらいに留めておかないと、おかしなことになると思う。
その匙加減がとても難しい。
さらに、それは提供する側の自制心というか、自律心が試されることにもなり得る。
去年まで開催していたTED翻訳体験ワークショップ(参照)では、募集の段階でも、当日の説明でも、「あくまでも英語学習の一環として、翻訳作業を利用する」という点を強調した。
たとえば、字幕の枠を利用して、訳し上げをせずに理解し先へ進む練習。
訳し上げとは、人物の描写や時間・場所など、英語で後ろに置かれている情報を前に持ってきて日本語に訳すこと。
これを禁じて、字幕の枠ごとに上から下の一方通行でどんどん訳し進めることで、読み・聞く際のスピードを上げる体験をしてもらった。
あるいは、語彙や文法や読み取り、聞き取りについて。
訳すという作業中に現れる現在の強みと、補強すべき点をまとめてフィードバックした。
参加者一人ひとりの英語に対する感覚的なクセや、よく見ているところ、見落としやすいところを指摘することで、今後の英語学習に生かしてもらうのが狙い。
それでもやはり「翻訳」のインパクトはかなり強く、私のへなちょこ匙加減では濃く出過ぎてしまっていたようだった。
一部の参加者は、「英語学習というより、翻訳訓練なのかな?と思った」と言った。
それを聞いた私は、「そうじゃないってあんなに強調したのに、やっぱり伝わらないのかぁ」とガッカリしたのだが、後々、こうした反応こそが英語教育を健全に保つ秘訣なのだと気づいた。
「翻訳訓練の要素が強い」と感じた参加者は、英語学習と翻訳訓練との区別がついている学習者である。
求めているのは英語学習。
「意に反して翻訳訓練をさせられた」というほど不満に思うわけではないにしても、翻訳体験で自分の英語力がどうアップするのか、疑いがあるのだろう。
自分が関わった学習機会について、それが自らの目的や好みに合っているかどうかを測ることができ、その査定結果を提供者(=私)に訴えられる。
高いリテラシーと自らの学びへの責任を備えた学習者だと言える。
こうした学習者は、ワークショップのように単発のものなら「1回受けたけど、もういいや」で離れるだろうし、長期的な受講なら「単位のため」と割り切るなり、講師に要望を出して方向転換を図るなり、対策を講じることができるだろう。
素晴らしい。
そしてその声によって、私はさまざまな選択肢とチャンスを与えられた。
参加者の表明したギャップを、予見しながら埋めきれなかったことを反省した。
課題の内容や構成を変えたり、説明の仕方、強調するポイントを改善したりして、「英語学習のための翻訳」という核がブレないよう、調整した。
おかげで、私は自分のやろうとしたことを再確認し、襟を正す機会を持つことができた。
ここでこうして翻訳教育と英語教育について考えるヒントにもなった。
一方、ほとんどの参加者は、「翻訳訓練の要素が強い」とは感じなかったか、あるいはそのことを歓迎していた。
「楽しかった」という声がたくさんあったし、実際に楽しそうだった。
翻訳に目覚めた人もいるようだった。
特に、解釈を他の参加者とすり合わせる作業は評判がよく、「次回はもっと解釈の幅が出るような作品を体験してみたい」という感想も多かった。
参加者に楽しんでもらえるというのはうれしいことだ。
「学び」という、もっとも大きな括りで言うなら、参加者は大いに学んだのだろうから、成功と呼んでもいいだろう。
しかし、その喜びと満足感こそが、提供者にとっては落とし穴になり得る。
そのうち私は参加者の喜びと満足感に寄せるようにして、課題や内容を変えるようになっていくかもしれない。
私をガッカリさせるような声は、少数の外れ値として都合よく無視。
自分がそもそもやろうとしていたことを忘れ、自分がアマチュア翻訳家であることも忘れ、なんとなくウケの良い部分をつまんで、“明るく楽しい翻訳講座”を提供するようになるかもしれない。
その場しのぎのクラスに学習者を付き合わせ、何を学んでるんだか、遠回りだとしてもいつ本道に戻るんだか、わからないまま学習者の時間を食うかもしれない。
本末転倒、分不相応に気づかず、誰にも注意されることなく、無邪気に「英語教育」の看板を掲げて、自らの身にメッキを塗り重ねるようなことをするかもしれない。
そしてメッキを剥がされないよう、重箱の隅をつついて学習者の欠点を大きく見せ、学習をエンドレスに引き伸ばす作戦を企むかもしれない。
怖い怖い。
この危うさは、翻訳に限らず、学習者にとって新規性のある教授法やアプローチや道具を導入する場合に共通するものだと思う。
学習者が珍しさに興味を引かれ、本質を見失いそうになったとき、軌道修正するか、乗っかるか。
かわいい学習者たちの楽しそうな顔を見ればうれしいし、それ見たさに、ついウケることに力を注ぎたくなっちゃうのよね。
気持ちはわかる。
でも、それは出来心。
というわけで、翻訳と英語教育について、思うところは2つ。
1. 学習者は自分が翻訳という専門分野を学びたいのか、広く英語を学びたいのか、きちんと決めて、自分の貴重なリソースの投資先を見定めること。
2. 学習の場を提供する側は、学習者を惑わせることなく誠実に努め、自らも惑わされないよう気をつけること。