アメリカ旅行

旅によって学ぶことがあるのなら、私がアメリカ旅行で学んだことはなんだろう、と考えてみる。

私の人生は、筏の上で寝そべって空を眺めているようなもの。(参照
イマドキの筏は空輸もされるようになったっぽいけど、筏にはあいかわらず舵やエンジンはつかないし、私はあいかわらず目的地や地図を持たず、漂っている。
で、気がついたら「え、ここどこ?」ってなことになるわけだけど、そこには「ここはこういう場所ですよ」という説明があるから、別に構わない。

でも、舵やエンジンを搭載し、目的をがっつり決めて、ある場所を目がけて突き進んでいる人にとって、そんな漂い方はあり得ないらしい。
彼らは彼ら自身と同じように、私にも目的や方角があるに違いないと思っているので、「何のために旅をしているのか」「これからどこへ向かうのか」を尋ねてくる。

いや、知らないよ。
隠してるわけでもなく、カッコつけてるわけでもなく、知らないんだよ。
でもそれじゃあなかなか許してもらえないから、それなりに応答するようになった。
たとえば「英語の勉強です」というような答えでも、相手が「あぁ、そっか!」と納得できれば、それでいいのだ。

真実は伝わりにくいということ。
相手の求めを汲み取り、それに応じること。
時には離れることも必要。
これは私がアメリカ旅行で学んだことだと思う。

アメリカ旅行では、自分の弱点、限界、情けなさを、大量に、頻繁に、容赦なく見せつけられた。
よくもまぁこんなに出てくるねと感心するほど次々に見せられた。
もう出尽くしただろうと思っても、しぶとくまた現れた。
それに対して、私はいちいち凹んだ。
もういいかげん慣れりゃいいのにね。
私もしつこいんだろうね。
こういうとき、ドMって本当に厄介。
もともと鼻は高いほうじゃなかったけど、どんなに低くても、へし折るって可能なんだということを知った。
それがわかると、鼻を高い状態でキープしている人の“中身”が見えるようになってしまった。

あるいは、挫折や逃げることの意味を知った。
アメリカ旅行に出る前の私は、それなりに挫折を経験済みだったので、そのあたりのことはもう知った気になっていた。
甘かった。
ま、そりゃ一度も挫折したことないよりはしておいてよかったけど、それだけじゃ到底足りなかった。
世の中には「挫折もさせてもらえない」ということがある。
挫折という選択肢があること自体が、贅沢なこと。
それがわかると、修行の段階か次元が変わるような感じがした。
逃げる人を心から許せるようになった。
逃げずに頑張る人がますます愛おしくなった。

そういえば、この旅行に出かける直前に、私は“黒ひげ”の樽にできるだけたくさんの剣をさしこみたいようなことを言っていた。(参照
なるほど。

アメリカ旅行とは名ばかりで、結局私は寝そべって空を眺め、外的な刺激をそのときどきに受け止めつつ、自分の内的な変化をなんとなく感じながら、「今はさっぱりわからないけど、これもまた、あとでわかるんだろうなぁ」と、のんきに漂っているのだ。
場所がどこなのかは、ほぼ関係がない。
そうしているうちにまた、筏は別のどこかに流れ着いていて、「え、ここどこ?」ってなことになるんだろうけど、それはそれで構わない。

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