紙の話で行くか、板書の話にするか、迷ったけど、紙のほうにしとこう。
日本の教育系の大人たちが集まる会で、でっかい紙が現れた。
私などは「おぉ、久しぶりに見た」と思ってしまったけど、そこにいる人たちにとっては珍しくもなんでもない日用品らしく、いかにも手慣れた感じで丸まっていた紙を広げ、“書記”を買って出た人が色とりどりの太いペンを使い、他の人が発言するのと同時進行でどんどん書きこんでいった。
その「言う→書く」の連携があまりに見事で、最初は感心していたのだが、まもなく別のことが気になってきた。
1つは、板書のこと。
この「言ったそばからどんどん書く」「あとで見返したときに誰の目にも読みやすいように書く」「書き上がった紙を眺めると達成感が得られる」というのは、日本の学校によくある風景だ。
書きつける媒体が黒板であれ、ホワイトボードであれ、ノートであれ、でっかい紙であれ、他人や未来の自分にとって読みやすいように心がけて、情報満載の“作品”を仕上げる。
その場にいた人たちは、それに慣れているand/or得意and/orむしろそれ以外の手段に慣れていないのかもな。
選択の余地もなく、何の迷いもなく、当たり前のようにして現れた大きな紙はすっかり文字で埋められた。
発言者もおそらく普段は板書する側の人たちなので、意識せずとも、「大きく見やすく書く」ということを踏まえた発言を提供することができている。
この「言う→書く」の連携は、書記と発言者のコンビ芸なのだ。
この“芸”をしっかりと叩き込まれた生徒の中には、話し合うより、考えるより、「書く」ということに注力する子がいる。
「考えをふくらませていたために、うっかり手が止まってしまい、ノートをとり損ねる」なんて、あり得ない。
元の発言に対してできるだけ忠実に、媒体のスペースに対して過不足なく収めて、きれいに残すことが優等生の条件にもなっているだろう。
発言が苦手だから書き手にまわる、というようなこともあるだろう。
授業中、「いま書くのに忙しいから私を指名しないでくださいオーラ」を放つこともあるだろう。
媒体が文字で埋めつくされると、美しい出来栄えにやりきった思いが載っかって、感動を覚えるのだろう。
それを“勉強”と呼ぶのだと思っている子もいるかもしれない。
板書の技術を磨く先生と、ノートの技術を磨く生徒。
会議の間じゅうメモをとるばかりで発言しない人、びっしり書き込んだ手帳などを見せたがる人、文字だらけのパワーポイント、テロップだらけのテレビ画面、聞く力と読む力のバランスの悪さ、文字と音、学習者の受け身な姿勢、学習における潔癖さ、などなど、いろんなことを考えた。
書くことは大事だけど、書くことが中心になって考えることを疎かにする、あるいは書いていることに安心して考えていないことを見逃してしまう、というのは、どうなんでしょうね。
でっかい紙そのものも、そこに喜々として文字を書き込んでいく様子も、“完成品”も、全部ひっくるめて、「久しぶりに見た」だった。
そして私はこれがとっても苦手だったんだなぁと気づく。
何を隠そう、↑の「いろんなことを考えた」間、私の手は止まっていたからね。
日本の学校に通っていた子ども時代の自分をハグしてあげたくなる。
大変だったね。
でも、そっちにはいかないで。
今日はもう1つのほうのことを書こう。
あのでっかい紙は「模造紙」というらしい。
あんなにしっかりした紙をつかまえて、「模造」って。
なんだかひどい名前じゃない?
調べてみると、名前の由来は大蔵省印刷局でつくられた紙(=局紙)を“模して”つくった、というところにあるそうだ。
「オーストリアでできた『Simili Japanese vellum』という語の『Simili』部分を『模造』と訳したのがはじまり」(参照)ということで落ち着いているっぽいのだけど、この英語じゃない語と英語の組み合わせがオーストリアで生まれたってとこに引っかかる。
出典を見ると、日本でこの名前が使われたことを示す書籍(参照)や展示(参照)までは押さえられているものの、その先が追えない。
「オーストリア産の紙を模した」という説もある。(参照)
日本国外の資料に移ると、手軽に読めるものを拾っただけでも、「1900年頃、日本に輸入されたときに『Simili』が付いた」としている文献や(参照)、上の資料で「誕生年」とされている1898年以前にもオーストリアでJapanese vellumが使われていたような記録が見つかる(参照)。
うーん。
「模造」は局紙に対する畏れ多さから来ていそうだから、日本国内で付け加えたと考える方が自然かな。
言語的なユルさも、日本の外国語だと思えば気にならない。
ま、日本国内では、すでに出回っている情報になんとなくみんなが満足してて、深く考える必要がないからなんとなく放置、という状態なんでしょうな。
あるある。
ブツが国外に出ることはめったにないから、言語的な謎が発覚しにくいのだろう。
念のためGoogle翻訳大先生にうかがってみると、「模造紙」は日本語なら「imitation paper」、中国語なら「mold paper」だと教えてくださった。(参照)
なにはともあれ、1900年前後の日本に、当時のオーストリアで使われていた言語(参照)をある程度理解し、「Simili」を「imitation」の意味で使う人がいた、ってことかな。
で、まぁその人の言語センスに従って、「局紙を模した」にしろ、「オーストリア産の紙を模した」にしろ、晴れて「模造紙」という名前ができた、ってことかしらね。
ただ、まぁそこまではいいとして、改良して国産化した時点で、「もう『模造』じゃないじゃん」ってツッコむ人はいなかったのかねぇ。
そのタイミングで改名できたのに。
そして以後、120年近くもの長きにわたり、改名のチャンスを与えられないまま今日に至るのか。
本来なら「上質欧紙」ぐらいでもよかったはずの紙が「模造」呼ばわりというのは、下手に知っちゃうと気の毒に思えてくる。
また、「模造紙」というのはあくまでも紙質の名前であってサイズは関係ないはずなのに、あのでっかいのに限定されているのも不思議。
八切り模造紙とか、模造紙ふせんとか、ないのかな。
改名のチャンスが与えられない理由の1つに、この手の問題の解決策としておなじみの、「アメリカの名前をそのまま持ってきてカタカナにする」が使えない、というのがあるかもしれない。
形状として近そうなのはEasel paper roll(参照)とかだろうけど、「イーゼルに載せて立てる」ってところに光が当たってしまうと、日本の模造紙のイメージとはつながりにくい。
模造紙は1枚ずつなので、Flip chart(参照)みたいに「めくる」も使えないしね。
「ロールペーパー」だとトイレかレジみたいだし。
「ラージペーパー」はさすがに意味がわかっちゃうからダサいだろうし。
統一しないで、方言で呼び名がバラついている現状を維持、ってのが無難なのかな。
そうこうするうちに、エコとかデジタル化とかの波に押されて、姿を消すのかな。
どうなる、模造紙。