「オトナになる」なんてこと、あるのかな。
ないんじゃないかな。
最近節目の誕生日を迎えた年上の友人が、「いったい自分はいつになったらオトナになるんだろうと思っちゃう」と言った。
「それは、たとえば10年ごととか、節目節目に思ってきたことですか?」と尋ねると、「んんー、さすがにこの年になったらオトナになるもんかなとなんとなく思ってたんだけど、いざなってみると、まだ全然オトナじゃないじゃんって、ちょっとびっくりしちゃう」。
本人的にはオトナになれないまま、気がついたら一周目が終わって暦が還ってしまったらしい。
それで、特に考えもせずごく自然に、「オトナって、全員がなれるものなんですか?」と尋ねた。
いまこうして書きながら気づいたけど、これ、日本の社会人としてはたぶん不正解だよね。
孫までいる人が「オトナになれてない」と言ってるんだから、子育てをしたこともない若輩者の私は、「えぇっ、XXさんでもそんなふうに思うんですか」と驚くとか、「またまたぁ」と冗談として聞き流すとか、そのへんが正解だったんじゃないかしら。
「オトナって、全員がなれるものなんですか?」と尋ねた私は、自分の口から出た質問を、自分の耳で聞いて、考えていた。
そうか、私は「全員がなれるもんじゃない」と思っているのだな。
「なるもの」と考えてた時期は私にもあったけど(参照)、今は違うんだな。
オトナに「なる」なんてこと、ないと思う。
少なくとも、1人の人間が、たかだか100年ぐらいの短期間のうちに、一挙にコドモからオトナになったりすることはないだろう。
オトナは生まれたときからオトナで、コドモはいくつになってもコドモ。
オトナは子どもの頃から「オトナでいよう」と心がけて、オトナをやっている。
コドモは大人になっても「コドモでいよう」と心に決めて、コドモをやっている。
人生のどこかの時点で、オトナが「今日からコドモに転向しよう」とか、コドモが「やっぱオトナで行こう」とか、思い立つこともないわけじゃないかもしれないけど、たいていの場合、オトナはずーっとオトナで、コドモはずーっとコドモ。
「毎年誕生日にケーキを食べながら、前日までの1年間を振り返って、『自分はなんてコドモなんだ』と反省する」という人がいたが、その人はケーキを食べ終わったら、反省したことは忘れるのだそうだ。
オトナはコドモになるつもりはないし、コドモもオトナになるつもりはない。
たまに「コドモでいられたら」とか「オトナになりたい」とか口走ってみたりするけど、しょせん空想でしかない。
本気じゃない。
いつまでたっても、オトナはオトナのまま、コドモはコドモのまま。
そのおかげで、世の中には常にオトナとコドモが同居している。
もっと言えば、「オトナ度」は人それぞれなので、オトナの最終回をやっているようなオトナ、オトナになりたてのオトナ、もうすぐオトナになれそうなコドモ、まだ当分コドモなコドモなど、いろんな人がこの世の中で混じり合って、交わり合って、暮らしている。
それでいいんじゃないの。
ま、そうは言ってもコドモは少ーしずつ、オトナに近づいてはいるんだけどね。
一生=人生1回分程度の変化は微細なものなので、観察によって確認するのは難しい。
コドモの目なら、なおさら。
変化に気づいたオトナが、「目には見えなくても、ちゃんと近づいてるんだよ」と、教えてあげればいい。