1コ前理論

1コ前の出来栄えによって「いま」が決まる、という考え方のこと。

この考え方の原点をたどると、いちばん古い記憶は小学2年生ごろ。
当時、叔父が開いたばかりの寿司屋を母や祖母が手伝っていた。
私は母のバイトが終わるのを待ちつつ、お店の片隅でドリルや公文をやるのが日常になっていた。
サラリーマン家庭で育った私にとって、客商売の舞台裏を覗くというのはとてもおもしろい経験で、特に開店前の職人さんがする仕込みや、がらんとした店内の様子を見て、大人たちの秘密を知ったようなゾクゾク感を楽しんでいた。

そして、来店するお客さんがリピーターになるかどうかを見ていた。
見覚えのあるお客さんがまたお店に来たとき、「あのお客さんは、この前に来たときに食べたものがおいしかったんだな」と思った。
そこから、2回めは1回めの結果、3回めは2回めの結果…という具合で、常に「マイナス1回」からのつながりを踏まえて、「お店に来るところまでが1コ前の回。今回はその後から次の来店まで。次があったら今回はマルだった、なければバツだったことになる」と考えるようになった。
その“評価法”を、私はそれ以外ありえないぐらい当たり前なものと思っていたのだが、ある日オーナーである叔父に「そういうことだよね」と説明して感心されてしまい、みんなはあんまりそう思っていないこと、つまりこの区切りが独特であることを知った。

この「物事の区切りを次の“来店”の後ろに置く」というのは、現在の私のあらゆる行動に染みついている。
人と会うとき、参加者募集をするとき、授業やセッションを実施するとき、いつもフタを開けるところを「1コ前の最後の部分」と見なしている。

「“来店”があった」ということは、「1コ前」の評価が良かったか、少なくとももう一度チャンスをもらえたわけなので、脳は学びに対して前向きになれる。
次の“回”はその直後に始まるからモチベーションが高いうちにすぐ着手できる。
「1コ前」を越えなくちゃ、という気が起きやすく、かつ考えすぎて怖気づくほどの余裕は与えられないので、ちょうどいい感じでパフォーマンスの向上につながりやすい。
それが私の「1コ前」理論。

職務を退くときや引越すときも、そう。
去り際に引き留められたり、名残を惜しまれたりするのはありがたいことではあるけど、たとえば引き継ぎがあるような場合なら、自分の後をやる人のスタートまでが、私の責任の範疇だと思っている。
最終的には私の命が終わるときも、そうだろう。
「いつまでも自分のことを忘れないでいてほしい」「自分がいないことを寂しがってもらいたい」という人も多いようだけど、私は私がいなくなった後、なるべくガチャガチャしないでスッと過ぎるのがいいと思う。
何事もなく次の“回”が始まったら、それが私の安堵の瞬間。

現大統領の最後のスピーチ(参照)は、素晴らしかったけど、「1コ前」という観点からすると不成功。
どんなに”the smoothest possible transition”を強調したって、そうはいかないのだろうしね。
次の“回”が始まってからも、人々に「1コ前の方が良かった」などと言わせてしまうのだろうしね。

あんなに惜しまれて、引き留められちゃダメだ。
この一点だけに限っては、きっと次期大統領は大成功を収める。

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