ひょんなことから知り合った、イギリス在住の日英・英日通訳の方と、急にお会いする機会を得た。
ことばの話、イギリスとアメリカの違い、言語能力だけではカバーできない文化的差異への対応、ミスコミュニケーション、クライアントのコミュニケーション力について。
日本語と英語の間に入って言語を変換するという、ある種機械的な作業を行いながら、日本語話者と英語話者の間に入って人と人をつなぐという、とても人間的な作業を行うことについて。
など、など、など。
さすがは大きな舞台で活躍する、現役の通訳さん。
あえて極端に走っても、語弊があっても、ともすると過激に踏み込んでも、どーんと構えて危うくならない、成熟した会話を楽しむことができた。
ふわっとした相手ではこうは行かない。
通訳と言語教育は大きく違う分野だが、プロフェッショナリズムとして共感できる点はたくさんあった。
たとえば、仕事への取り組み方として、ものすごくドライに淡々と職務をこなす方法もあれば、1つ1つの案件にじっくり関わる方法もあるという点。
そのどちらを選ぶかが通訳者個人の個性や哲学に委ねられているという点。
ひとくちに「通訳」と言っても中身はいろいろ。
私は「英語教育リテラシー」(参照)として、学習者側の見る目を養う必要性を訴えているが、それと同じように、通訳を依頼する側が「自分がどんな通訳を好み、通訳を利用することによってどんな結果を求めているか」をしっかり定めたうえで、自分のニーズに合う通訳を見つける力をつけることは大切だと思う。
特に印象的だったのは、英語が堪能な人ほど通訳を雇うという話。
ネイティブと遜色ない英語を使うドイツ人が独英通訳を依頼するにあたり、その理由として「自分の英語は言語的には問題ないが、大切な場面で文化的な不行き届きがあっては困る」と述べたという。
うん。
自分で運転できるようになると、タクシーが上手に使えるようになるのだよ。(参照)
ていうかこれ、日本人英語学習者に欠けていることを凝縮したようなエピソードだ。
そこに表れているのは、母語での言語表現の質、自分の言語能力を客観的に査定すること、文化的能力という概念を理解すること、真摯にコミュニケーションに臨む態度、対話相手への敬意。
この方向で学習者が成長するためにはまず目標言語(英語)を使う経験が必要だが、こうしたメタ認知や社会性が育まれるのは、学習者の言語能力が一定以上のレベルに達しているからこそかもしれないと思う。
英語の習得がスタートにもゴールにもなり、習得した英語力が学習プロセスを下支えしながら人間的な成長と相互に作用するイメージ。
研究やコーチングを通じて常々思うことだが、日本人英語学習者は、「どのくらいペラペラか」に目を奪われて、そこに至るプロセスに目を向けることを忘れがち。
自分がどこをどう通って、どこへたどり着こうとしているのか、考えない。
日本人の話す英語にはやたら辛辣だが、他の学習者が何を目標に、どんな意志を持ってどういう学習をどう進めているかには興味がない。
日本語以外の言語を母語に持ち、自分と同じように英語を学んでいる非母語話者との接点が少ない。
第二言語習得において自分より成功している人を広く観察し、普遍的な秘訣を盗むという知恵がない。
学習がゆるやかに続くことにうんざりするのではなく、終わりがないという事実をごく自然に受け止めることや、自分の不足を感情的にではなく冷静に認めて、それを補う選択肢を求めて正確な情報を得る重要性を、学習者にもっと伝えていけるようになりたい。
日本人同士でしか通じない“英語風”の不思議な言語を操り、独りよがりの“英語”にうっとりして裸の王様状態に陥っちゃったり、表面的な“オールイングリッシュ”に不当な高価値を付けてガラパゴス化を推進したりしないためにも、せめて私が関わる学習者には、視野を広く保ち、いろんな人と出会い、さまざまな刺激や影響を受けながら、自分の学習を進めるために良質な栄養をたっぷり吸収してほしいと思う。
何度も書いているが、国内でほぼ不要の言語をわざわざ学んで、結果的に自分の世界を狭めてどうするの、ってことだよ。
そもそもなんで英語やってんだっけ?
自分の世界を広げるつもりがないなら、英語なんてすっぱりやめちゃいなよ。
時間も労力もお金も節約して、必要なときだけ優秀な通訳を雇えばいいじゃん。
日本人英語学習者を取り巻く環境にはまだまだ「ネイティブ信仰」が根強く、そのわりに「通じりゃ十分」でもあるため、理想と現実のギャップが大きく、英語を学習する目標がちっとも定まらない。
目標が定まらないから、学習に現実味がない。
「それでは前へ進めないから」と、とりあえず仮に「受験」や「スコア」をあてがってみた。
すると、意外にも「じゃ、それで」と乗っかる人が多く、いつの間にか仮だったはずの“目標”が本物扱いされるようになった。
で、だんだんと困ったことになって、「じゃ、目標変えましょう」「賛成。でも、どう変えましょう?」となって、現在に至っているように思う。
そのうち何らかの変化は起きるのだろうけど、その変化が果たして学習者にとって良いように転ぶかどうか。
私の見る限り、今のところ声の大きい人たちほど英語学習に詳しくなさそうな気配なので、あんまり良い予感はしない。
ところで、「とりあえず仮に」に思いがけず大勢の人が乗っかって、いつの間にか本物扱いになって、言い出しっぺまでついその気になっちゃって、全体的におかしなことになる…なんてこと、普通に考えたらあり得ない。
あり得ないんだけど、実際にはよくある。
奇しくも、アメリカで大型の記者会見が開かれたので(参照)、英日の同時通訳付きで見てみた。
こんなに長時間、同時通訳を聞いたのは初めて。
通訳ブースの緊迫感を想像しながら聞いていたせいか、コミュニケーションとして残念なものを見せられたせいか、なんだかとても疲れた。
本当に大変なお仕事だね。
私には絶対無理っす。