美麗字句

「美麗字句」という、オモシロ語について。

はじめて見たときは、「ははぁ、なるほど」と思った程度だった。
この表現を使っていたのは日頃から言葉づかいに独特なところがある人で、この手の「オモシロ」は日常茶飯事。
私もこの程度じゃ、もう目がテンになったりしないのだ。

「ふんいき→ふいんき」(参照)とか「ask→aks」と同じで、うっかりひっくり返っちゃったんだろう。
言いたいことはわかるし、文脈的にもマッチしてしまうので、修正されにくい。
感覚派ならではの言語使用。
そりゃ私のような“読んじゃう病”の人は素通りできないけど、かと言って毎回毎回がっつり関わるわけにもいかないので、「またおもしろいのを作ってるな」と思ってやり過ごす。

しかし、つい出来心で立ち止まって考えてしまった。
「美麗字句」は、感覚派の産物には違いないけど、なんというか、完成度が高すぎる。
で、検索してみた。
ははぁ、これはもう、「一般に通用している」と主張されてもしょうがないレベル。(参照
やっぱり感覚派は強い。

なにがどうなってこのオモシロ語が生まれたか、誰か解説してないかと思って調べてみたが、見当たらない。
うーん。
じゃ、やってみっか。

まずはせっかちな人のためにはっきりと断っておくが、「美麗字句」という日本語表現はない。
現時点で違和感なく使う人の数がそれなりにあって、増加しつつある気配なので、将来的には認められる可能性があるが、とりあえず今のところは誤り。
正しくは「美辞麗句」。
まずはその意味から確認しておこう。

びじ-れいく【美辞麗句】
巧みに美しく飾った言葉。 うわべだけ飾った内容の乏しい、また真実味のない言葉の意。
(新明解四字熟語辞典 参照

いちおう中国語母語話者に確認したが、どうやらこれは日本でできた四字熟語っぽい。

僭越ながら、感覚派が「美辞麗句」と出会ってから「美麗字句」を使い、定着に至るまでを想像してみると、おそらく以下のようなプロセスをたどる。
良いとか悪いとかじゃなくてね。

①文字の並びをサッと見る。
②カンと想像で解釈する。辞書を引いた場合は語釈をサッと読む。
③「キレイで嘘っぽい言葉ってことね。オッケー!」と思う。理解終了。
④後日、「キレイで嘘っぽい言葉」を一言で表現したい衝動が起きる。
⑤「キレイ」を「美麗」に、「言葉」を「字句」に変換し、組み合わせる。
⑥記憶の中にある①で見たものと照合する。見た目や音の感じがだいたい合っている。オッケー。
⑦ためらわず使う。入力時になぜか一発変換できなくても気にしない。
⑧相手に伝わる。修正されない。
⑨「正しく使えた」という経験が記憶に残る。記憶が強化される。

感覚派の潔さは、この疑いのなさにある。
「間違ってるかもしれない」とせせこましく辞書を引き直したり、「他の人はどうかな」と検索してお伺いを立てるようでは、感覚派の名が廃る。
「私がこう思うんだから、こう」でいいのだ。

あるいは感覚派が「美麗字句」に慣れた後で「美辞麗句」に出会った場合を想像してみる。

①文字の並びをサッと見る。
②文脈から、「キレイで嘘っぽい言葉ってことね。オッケー!」と思う。理解終了。
③「美麗字句」との違いに気づかない。または、気にしない。

感覚派の中には自らの言語能力に自信がある人もいるので、「それを言うなら『美麗字句』ね」と修正を促すこともある。
このタイプが世の中で多数となると、晴れて「美麗字句」は“正しい”と認められ、「美辞麗句」は「古くは~とも」とか言われて、やがて誤用扱いになって追いやられる。
「美辞」と「麗句」って同じじゃん、重ねるなんて意味わかんない、「『美麗』な『字句』」の方がわかりやすい、ってなもんだ。

それにしても、「美麗字句」。
江戸っ子みたいな、90年代のギョーカイ用語みたいな雰囲気があるよね。
そういえば感覚派の感覚って、意外とバリエーションに乏しく、いつの時代も根拠や基準がだいたい同じで、成り立ちが似ているような気がする。
きっとその感覚は言語の誕生期に遡っても同じなのだ。
感覚派には歴史と伝統があるのだろう。
勝てないはずだ。

そしてカタカナ語やいわゆる和製英語、原語の意味や見た目に対する独特な解釈、早とちり、勘違い、それに基づく自由な拡大や縮小や飾り付けや省略は、すべて感覚派が牽引している。
ふわっと始まって、大胆に使って、強引に通して、広まって、安心する。
彼らは次々と新語を生み、世に送り出す。
その一部は流行し、さらにそのうちのごく一部は“正用”に昇格するが、ほとんどのものは短命で、生みっぱなしの育てずじまいで捨てられる。
でも、いいんだよね。
どうせまたどんどん生まれてくるんだから。
彼らがいなければ、言語の世界の繁栄はあり得ない。

勝てっこない。

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