父とのおしゃべりから、老いについて考える。
長年、外国で自由にさせてもらっている一人っ子として、スカイプで両親と話ができるのは本当にありがたいこと。
私が合図をして通話を依頼すると、たいていの場合は母が相手してくれるが、たまに、母の不在時などには父が付き合ってくれることがある。
昨日はそんな「たま」の1つに当たった。
近況を聞く中で、父が「衰えたなぁと思うことが多い」と言った。
たとえばどんなことか尋ねると、「いままでだったら短時間で終えられた庭仕事に、うんと時間がかかるようになった」「いつも余裕で渡れていた横断歩道がギリギリになった」などと言う。
「庭の手入れは、たとえば今回はいつもより枝が伸びていたとか、その時々で作業量が違うんじゃないの?」と言うと、「まぁそうかもしれないけど…」と、いまいち納得できない様子。
老いや衰えというのは、本人の主観的な感じ方がすべてなので、まぁ、本人がそう思うならしょうがない、というところはある。
いくら本人以外の他者が「そんなことないよ」と言っても、本気でそう思っても、なかなか「あ、そっか」とはならないものだ。
で、考えたこと、2つ。
1つめは、老いや衰えに対する気づきについて。
たとえばスポーツをずっとやってきた人は、「昔のように走れなくなった」「すぐ息があがるようになった」などの変化に気づいたり、以前なら軽々と越えていたものにつまづいてケガをしたりした時に「衰えた」と感じる。
お酒なら「弱くなった」「翌日に残るようになった」だし、美容なら「シミやシワが増えた」「ハリがなくなった」だし、学習なら「物覚えが悪くなった」「集中力がなくなった」など、あるとき急に変化を目の当たりにして、「老いた」「衰えた」と言い出すのである。
この手の老いや衰えに対する急な気づきは、得意分野や優越感を持つ人に特有のものである。
自分が得意なことだからこそ、その変化に敏感で、特にマイナスの変化についてはどんなに小さなことでも一つ残らず察知する。
かつての優越感がそのまま劣等感になるので、はじめは抵抗するが、あるところで面倒くさくなったり気力がなくなったりして抗うのをやめる。
すると今度はなぜか自らの劣等感に加勢するようになり、自分に対して強烈なダメ出しをして、こてんぱんに叩きのめす。
そうやって抵抗し叩きのめすことで、自らの力強さを誇示し、「まだ老いていない・衰えていない」と信じようとしているのだと思う。
老いや衰えは、いつでも着実に進行している。
止まることはないし、止めることはできない。
たとえば赤ちゃんや子どもに対しては、その現象をもれなく「成長」と呼ぶ。
それをどこかからか「老い・衰え」と呼ぶようになる。
あるところまでは喜んで歓迎し、憧れ、あるところからは忌避したり嘆いたりするというわけだ。
でも実は、呼び方や、本人の自覚や、感情的な遷移とはまったく無関係に、老い・衰えは常に静かに進んでいる。
つまり、ある人の「老い・衰え」に対する自己申告は、「自分が自信を持ってきたことにおける微妙な変化にふと気づいた」という報告なのである。
その変化が、たまたま自分にとって好ましくないタイプのものだったりすると、慌ててどうにかしようとしたり、凹んだりする。
その気づきが、いつどんなきっかけで起きるか、あるいは起きないかは人それぞれ。
他者が気づくよりずっと早い場合もあるし、他者はみんな気づいているのに本人だけが気づいていないという場合もある。
ある1つの分野の老い・衰えに気づいても、他の分野の老い・衰えにはあいかわらず気づかないということもあるし、1つの気づきが他へ波及して、あまりにも大量の気づきが急に押し寄せて、いわばパンドラの箱を開けたようなことになってパニックに陥ることもある。
私もあなたも、日々刻々、順調に老い、衰えている。
急に気づくとびっくりするだろうけどね。
殊更に怖がったり嫌がったりすることはないんだよ。
気づかないフリにも限界があるしね。
できることなら緩やかに、じわじわと、なだらかな変化に常に気づいているという状態を保つと、本人は心穏やかに変化を受け入れていけるのだが、それが難しい場合には、他者の助けが必要になると思う。
ただし、老い・衰えを止めることや、気づきのタイミングをコントロールすることはできないので、他者はいわば報告を受け次第、対応することになる。
気づきが起きにくい人ほど急に慌てることになるので、周りの人が先回りして準備しておき、その時が来たら「はいよ」と受ける心づもりをしておく。
慌てている人に巻き込まれて一緒に慌てなくて済むように。
気づきにともなって、多くの人は驚き、ガッカリする。
それで、報告にはネガティブな感情を混ぜる場合が多い。
本当に聞いてほしいのはそこんとこなのだ。
報告を受ける人はそのことを念頭に置いておくと、できることや、してあげるとよいことが見つけやすい。
ちなみにうちの父は、この多数の反応から外れていて、特に驚いたり落胆したりはしていない模様。
私はいろんなところでことごとく統計的にハマらないのだが、このOutlier(外れ値)っぷりは父譲りなのだろう。
Outlierというのはバラバラなものの総称なので、父と私は似ていないのだが、集団からの離れ方や、集団との距離のとり方が似ているのだ。
考えたことの2つめは、Self-verification theory(参照)。
日本語ではverificationの訳が定まっていないようで、「自己証明/確認/検証/確証」などと呼ばれているみたい。
「自分はこういう人間なんだ」というself-viewをverify(立証・実証)するために、それに見合う証拠を集めたり作ったりして、「ほら、間違いなくそうでしょ」とやりたがる心理のこと。
証拠集めといっても、なにせ自分の仮説の正しさを認めさせるためのものなので、思いっきり主観的で、不公平や捏造も厭わない。
「老い・衰え」を証明するために、「横断歩道がギリギリだった」回数はカウントするけど、「いつもどおり間に合った」回数はカウントしない、みたいなこと。
不吉な占いに引っぱられて行動し、自ら占いに寄せていって、結果的に当たったことにしちゃう、もそうかな。
私はこのTheoryを、つい先日、心理学者の友人Kと話していて知った。
Impostor syndrome(参照)をこじらせた私は、師匠や友人が私の能力を誤解しているという“確信”のもと、おかしな行動に出ているフシがある。
「ほら、私はこんなにダメでしょ。私の言ったとおりでしょ」とやりたがっているのではないか、と。
そしてそれは、よーく考えるとアホなことだろう、と。
仮に、私がサボったり、メチャクチャなことを言ったりやったりして証拠を積み上げ、満場一致で「わかったよ、キミの言うとおり、キミをダメ人間と認めるよ」という“判決”を勝ち獲って、自分のネガティブなSelf-viewが見事に認められたとしても、そこには何の意味もない。
それよりは、たとえ自分の仮説が覆されて「みんなが正しかった」という結論に至ることになるとしても、「ダメじゃない」という方向で努力した方が有効じゃない?
…ということをKに教わったところだったのだ。
そう言われてみればまったくそのとおりで、何を頑張って証明しようとしていたのかさえわからなくなるのだが、言われてみないと気づかないということって多々あるもので。
てか。
は。
これも父譲りってことなのかしら。