第1回ディベートを見ている。
まだ途中なんだけどさ。
大統領候補のディベートは、私にとって言語使用の祭典。
ものすごい数の人が見る、失敗の許されない、とんでもないプレッシャーの中、発言の一語一句を捕まえられ、揚げ足を取られ、映像・文字ともに瞬時に世界中に報道され、末代まで繰り返し伝えられる。
音声的な明瞭さ、意味的な明確さ、論理構成、発言する態度、間、表情などのすべてが詳細に審査される。
言語を使う環境として、この上なく条件の悪い中で、感情のコントロールをしながら、複雑で高度な内容を語る。
豊富な知識、洗練された語の選択、文法的な正確性、確かな論理。
言語を使うという行為の中に詰め込んだ能力や知性や人間性が、ある程度は計算どおりに抑えられながら、時に溢れ出す。
綿密な準備と瞬発力が問われるアドリブのバランス。
対立候補、モデレータ、会場にいる聴衆という実際に目の前にいる人はもちろん、後ろにいる仲間、メディアの向こうにいる国民、国内にいる外国人、外国にいる自国民、外国にいる外国人など、ありとあらゆる人を想定し、聞き手に敬意を払いながら、自らの主張や哲学を言語に載せて発信する。
スポーツなら、オリンピックみたいなものかなぁ。
頂点を競う人たちは、当日までのトレーニングや準備してきたことがすべて発揮できたら、たぶんどの選手も勝てる力を備えているのだろう。
それが当日の何かほんのちょっとしたことで発揮できなかったり、風向きが変わったり、心が揺れたりして、パフォーマンスが左右される。
だから勝つ人はもちろん、勝てるはずだったのに勝てなかった人も、見ている人に感動を与える。
私はこの言語使用の祭典に、そういう美しさを見ていたんだなぁと思う。
前回までは。
言語のショーとして、感動することはなかった。
美しい瞬間を見つけることができなかった。
残念。