自信について、最近思うこと。
T先生は、「多くの人は『自信』の意味を取り違えている」とおっしゃった。
「絶対できる!」系の意気込みを強めに表明することは、本当の自信ではない。
そこまではわかるんだけど、その先の「自分を信じる」とか「自分を尊ぶ」とかは「自信」とは別のもののような気がする。
だから私には「本当の自信」がどういうものかわからなくて、「自信は必要」かどうかもわからない。
そうなんだよなぁ。
私はやっぱり「自信は必要」に対する疑いを持ち続けているのだと思う。
先生、ごめんね。
何度も書いているとおり(参照)、「いま私に自信があったら便利だろうなぁ」という局面は、日々、たくさんある。
その場合の「自信」とは、どこでもドアとかタイムマシンみたいなもので、そりゃあったら便利だけど、実際にはないことも重々承知している。
じゃあそれがないから何もしないかと言えば、そんなことでは現実が許してくれない。
たとえばどこでもドアがこの世にないからと言って、「だから外出できません」「ドアができるまで待ちます」ってなわけにはいかない。
しょうがないから、どこでもドアの代わりに、車や電車や飛行機を使って、時間や労力やお金をかけて、まぁ言ってみれば“普通に”移動するのである。
「自信がないからできません」「“ない”が“ある”になるまで待ってください」じゃどうにもならないので、自信はないけど、しぶしぶ、やるのである。
それが私の“普通”なのである。
さらに、どこでもドアやタイムマシンは、果たして本当に「あったら便利」なのかどうか考える。
確かに「あったら便利」な場合はある。
たとえば日本とアメリカの往復がドア1つでできたら、そりゃ便利。
過去や未来を行き来できたら、そりゃ便利。
でも、じゃあ実際にそういう道具がうちにあったらと考えると、「やっぱり要らないかも」と思えてくる。
かえって不便な場合も思いつくし、便利さに溺れて人としてダメになる恐ろしさも想像できる。
そういえば、『ドラえもん』と『笑ゥせぇるすまん』(参照)は、少なくとも途中までは同じ人が描いてたんだよね。
そういえばそういえば、「あったら便利だろうなぁ」と思うのって、たいてい切羽詰まって現実逃避しようとしてる時だ。
そんな時に考えることって、だいたいろくでもないよね。
「自信」はその本人ではなく、周りのためのものだと思う。(参照)
何かを任せる際に、その人が「自信がある」と言ってくれれば、周りは安心する。
「自信がない」と言われちゃうと、周りは不安になる。
だから周りを安心させるために、表向き「『自信がある』と言ってあげる」ことには意味がある。
「絶対できる!」系の表明が「自信がある」と誤解されやすいのは、「自信」にサービス精神というか、パフォーマンス性が伴うからだろう。
そういえば、いわゆる「自信過剰」というのは、周りの目を気にしなかったら成立しない。
しかし、周りのためを思って「自信」のある素振りをしてみせることと、実際に本人が「自信」を持つこととは別だ。
自信は、ふと「あったら便利」と思いがちだけど、よくよく考えてみると、「なくても大丈夫」か「なくて良かった」なものなんじゃないのかなぁ。
私の周りには、すごい人がたくさんいる。
立派な教育機関で学び、世界最高峰の研究機関で、最先端研究をしている人もいる。
生き馬の目を抜く世界で、もがきながら勝ち進んでいる人もいる。
貧困や戦争に苦しむ場所に出向いて、事業を起こし、成功させている人もいる。
声なき人の声を聞き、人に寄り添い、他人の幸せを心から望んでいる人もいる。
エリートもスターもメダリストもいる。
彼らには「自信」があるだろうか。
私は「自信」を求めていた時期が長いので、それがどういうものか知りたくて、これまですごい人に会うたび、その人の中にある「自信」を見学させてもらおうとしてきた。
すごい人なんだから、「自信」はあるに決まってる。
意気込みでもハッタリでもない、おそらく言葉にならない何かを、彼らは持っているに違いないのだから、それを読み取って、真似させてもらおうと思っていた。
その目論見は、少なくとも今日まで外れ続けている。
私は彼らの中にあるはずの「自信」が見つけられていない。
それどころか、彼らは親しくなればなるほど、「自信のなさ」を吐露する。
おかげで、私はいまだに「自信」がどういうものなのか、知らないままなのだ。
自信は、ないのが当たり前で、それでいいんじゃないだろうか。
立場上、自信があるように見せなくてはいけない場面はあるし、「自信がないから」とか「『自信がある』になったら」とか、一歩を踏み出さないための言い訳をするのは迷惑だしカッコ悪いけど、それさえ気をつけていれば、つまり自信がないことを理由に行動を左右させることさえしなければ、自信はなくて構わないんじゃないだろうか。
「自信がなければ、ないまま一歩を踏み出しちゃうという選択肢があってもいい」という意味で「不信実行」という提言をしたのは今から9年前だったけど(参照)、いろんな人に会って、じっくり考えて、結局そこへ戻ってきちゃったんだよなぁ。
いまや私は相談業を営んでいて、「自信」のない英語学習者と話す機会が多い。
いろんな角度から話をする中で、彼らが自らの解釈で「自信」をつけることもある。
それはそれでいい。
時と場合によっては、そういう即効性のある、すぐ目に見える効果が必要なこともある。
ただ、私はむしろ「自信がない」の方に、言わば漢方のような、すぐには実感できないけれどじんわり効いて、気がついたら良くなっているという効果が期待できるような気がしている。
「自信がない」のは、その学習者が良い学習環境に身を置いている証拠である。
ネイティブや言語的センスの高い人や、ただただ優秀な人など、自分より英語が上手な人に囲まれて、今の自分の英語力よりも高いものを要求されている人たち。
彼らのいる環境で、彼らが完全勝利を収めることはあり得ない。
血の滲むような努力はすでにしているし、そんなことでは勝てっこないのだ。
勝てっこないんだから、「自信」なんて持てるはずがない。
「自信がない」は、その厳しくも恵まれた環境で、逃げずに踏みとどまっている証拠である。
逆を考えてみよう。
英語ができない人や論理構成の甘い人に囲まれて、自分が何を言っても書いても「すごーい」「英語ペラペラー」ともてはやされていたら、「自信がない」とは言えなくなるだろう。
そのことが「自信がある」に直結するかどうかは、その人のキャラにもよるけど、少なくとも、いま感じているような「自信のなさ」からは解放される。
でも、果たしてそれは望ましいことだろうか。
ぬるい環境で連勝して、落ち込むことも傷つくこともなく、あわよくば「自信」がついたところで、それが何になるだろうか。
現実から目をそらさず、自分の至らなさを直視して、自分より優れた人に囲まれて、それに追いつくために必死で走り、さらなる成長を求められ、勝てっこない試合に臨み、毎日、鼻がいくつあっても足りないくらいへし折られ続ける。
「自信がない」に決まってるじゃないの。
私の仕事は、「自信がない」学習者を説き伏せて、自信を持たせることじゃない。
自信がないことを、選択の理由にさせないこと。
「自信が降ってくるまで待つ」という、“二の足”(参照)な態度に疑問を投げかけること。
自信がないまま学習を続ける、その気力が保てるように、サポートすること。
そういうことのような気がしてきた。
「自信」はどこでもドア。
気持ちが弱っているときほど「あったらいいな」と思うけど、なくても困らないし、よく考えると、なくていいんだ。
そういうことを、少しずつでも伝えていけたらいいなと思う。
じっくり考えてみるに、私、自信はあるといえばあります。ただ、その内容は「今までだってギリギリ何とか切り抜けてこれたんだから、今度もきっと土壇場でなんとかなるさ」程度の、はなはだ行き当たりばったりの浅はかなものでありまして、人に誇れるほどのことができるというような意味では、まったくありません。
言い換えれば「年取って、嫌でも場数踏まされたことによる控えめな度胸」程度のものなのでしょうが、まあ、この程度が分相応なのだろうとも思われます。
「過去のデータから傾向を推定する」という統計型の「自信」はアリですよね。ただ、私は記憶力の問題からデータがすぐ消えてしまうので、その手が使えないんです。笑
「自信」の正体はともかく、持っていれば便利で安心だと思います。たぶん私が気にしているのは、「自信」に対する盲信というか妄信というか、崇拝とか、そのあたりのことなんでしょうね。引き続き考えてみます。