英語のせいなのか、英語以外のせいなのか、見極めることについて。
友人から相談を受ける。
「自分の英語力の不足を感じる。どういうトレーニングをしたらいいだろうか。」
友人の英語はいわゆる”Near-native”。
本人は大真面目で言う。
「スピーキングをどうにかしたい。」
すすすすぴーきんぐって。
こういうことは自己申告だからしょうがない。
とりあえず話を聞く。
学習者のみなさん、このことが励みになるのか、気が遠くなってイヤになっちゃうのかわからないけど、「こういう事実がある」ってことは知っておいてもいいかもよ。
アメリカで長く暮らし、結果を残し、世界トップレベルの機関で、世界トップレベルの仲間たちと切磋琢磨しながら最先端なことにがっつり関わっている人でも、ふと自分の英語力を責めたくなる時があるのだ。
「英語のせいだ」と思いたくなる時があるのだ。
話し始めてまもなく、本人自ら「あ、英語の話じゃなかった」と気づく。
「じゃ、何の話なのか」と考える。
そうやって問題の本質に近づいていく。
“英語の相談”にはこういうことがよくある。
友人のように英語の習熟度が高く、言語以外にも広く豊かな学習経験をもつ人でもそうなんだから、学習経験が浅い学習者が、「英語のせいだ」と思うのは当たり前かもね。
英語に惚れ、英語に夢や未来を託したい学習者なら、なおさらそう思い込みやすいだろうね。
何か自分の思いどおりにならないことが起きたら、その原因としてまず真っ先に「英語のせい」が浮かぶ。
「英語さえなんとかなれば、きっとすべてうまくいく」と思いたい気持ちが強いのだろう。
英語は諸悪の根源であり、万能薬でもあるのかしらね。
敵にされたり、追いかけられたり、英語さんも大変ねぇ。
問題があるのは英語ができないせいで、英語ができるようにさえなれば、何もかも解決できるはず。
もしもそういう考えの個人が集まって、その考えを疑うことのないまま集団を形成したら、どうなるだろうか。
人々の知性や社会性や、人間関係や、産業や経済や、戦争や平和や、その他諸々のいろんな問題はすべて「英語のせいだ」ってなことになるんだろうか。
それで国を挙げて「国民の英語力向上が急務」みたいなことになっちゃうんだろうか。
ま、ま、ま。
そりゃね。
たかが英語、されど英語ってとこはあるよ。
できないよりは、できたほうがいいかもしれないよ。
でもまぁ、全部が全部、なんでもかんでもなわけはないじゃん?
「どうしたら英語ができるようになるか」は大事。
やるからには、ちゃんとした方法でやんないとね。
でも、そればっかりは危険。
たまには、「ねぇ、そもそも何がしたいんだったっけ?」と問いかけることを思い出してね。