「音楽×美術 様式史からたどる二つの芸術」というイベントに参加してきた。
音楽学の専門家Mさんと美術史の専門家Yさんが、一緒に時代をたどりながら、それぞれに何が起きていたのか、お互いはどう関わっていたのか、似たことをやっていたのか、違っていたのか、などを日本語で、専門外の人を相手にわかりやすく解説する企画。
おもしろそう。
そりゃ行くでしょ。
ご自宅を使ってのサロン的なイベントで、参加者は10名程度。
私はNYCの日本人イベントからしばらく遠ざかっていたのだが、それでも何人か知り合いが来ていて、久しぶりに再会する機会にもなった。
自己紹介の段階から、参加者の個性や、会場全体の懐の深さが感じられ、和やかな会を予感。
解説はよく練られており、参加者の知的好奇心をくすぐり、大笑いする人あり、鳥肌を立てる人あり…で、予定時間を大幅にオーバーしての3時間半をあっという間と感じさせる内容だった。
MさんもYさんも、言語センスが高く言葉をとても大切にされているので、安心して気持ちよく聞いていることができた。
参加者たちが言っていたとおり、こんな贅沢なイベントが、日常の中に自然にあるというのは本当に豊かなことだと思う。
こういう豊かさを知っている人と知らない人との違いは、日々の暮らし方や他人との接し方など、生き方全般に現れてくるのだと思う。
で、例によって、英語学習や教育の文脈で消化してみる。
考えたこと、2つ。
全体的にぼんやりしてるけど、今後、考えが深まりそうな気がするので、ひとまず叩き台として記しておく。
1つめは、「同じことを英語教育でもやったらいいんじゃないの」という方向。
芸術は、もともとテーマを定めてコンサートや展覧会などの企画をし、人々を集めて披露する習慣があるので、こうしたイベントのアイディアにつながりやすい。
オーディエンスの側にも、キュレーターや学芸員などの解説を聞き、現物に触れ、咀嚼する習慣が確立している。
とはいえ、こうしたイベントは、どう考えても教育的な行為である。
内容が音楽や美術だとしても、そこで土台となり、器となり、プロダクトとなっているのは「学び」である。
だとすると、今回のイベントでいう「音楽」なり「美術」なりを他のものに置き換えさえすれば、「XX教育」が成立することになるわけだ。
あら、カンタン。
お湯を注いで3分、ぐらいの感覚じゃん。
ではその「XX」に「英語」を入れて得られる「英語教育」は、いま存在する一般的な「英語教育」と同じものになっているか、と考える。
もし大きく異なるのであれば、そこには何かを変えるためのヒントがあるんじゃないだろうか。
「英語科」(参照)や「代数」(参照)あたりの話っぽいな。
それはともかく、今あるものと別物なら別物でも構わないから、「XX」に「英語」を入れた「英語教育」、やってみたらいいんじゃないの。
2つめは、「そうは言っても、難しいかな」という方向。
人文、科学を問わずほとんどの分野には、事実や現物が残されており、ざっくりした体系があり、業界全体で概ね納得できる一定の評価がなされている。
もちろんそこには解釈があり、バイアスがあり、知れば知るほど説明しにくい複雑な側面が見えてくるものだが、それを踏まえた上で、あえて初心者向けの「101」を提供するということができている。
知識の上澄みの、ほんのひとつまみをさらに薄めて話すというのは、実は悶絶するほど辛いことではあるだろうけど、たとえば専門家が子ども向けの解説をする、という場面は珍しくない。
今回のような芸術学者の他、たとえば宇宙飛行士やお医者さんを考えても、いわば「論文と絵本の両方が書ける」というような人の顔がいくつも浮かぶ。
では、「英語教育101」はどうだろうか。
日本なら日本の英語教育でいいんだけど、言語学(英語学)に絞ったり、歴史に絡めたり、社会学的に切り取って論じるのではなく、英語教育まるごとを題材に「絵本」を作ることはできるだろうか。
少なくとも私は見たことがないと思うが、どこかにそんなものがあるのだろうか。
「だいたいこんな感じ」という体系だった理論の紹介は、たとえばSLAの年表みたいなものが近そうかなと思うけど、「絵本」として見せるには専門性が高すぎるだろう。
後日、Yさんとやりとりしながら、美術史の「絵本」や「101」にあたるものを、英語教育で実現しにくい理由を考えた。
今のところ、思いつくのは以下のとおり。
・オーディエンスがみんな「身に覚えのある人」である
英語教育に興味をもつ人たちは、まっさらな状態で「英語教育って何?」と思っているわけではない。
たとえば日本人なら、英語教育をまったく受けたことがない人はとても少ないし、ほとんどの人は「英語」がどういうものかとか、それを学ぶ意味とか理由を知っている(少なくともそう自覚している)。
「完全なる素人」が存在しないのである。
ある程度の知識や経験があるから、「英語教育とは」をイチから知りたいという動機が起きにくい。
また、それぞれ自分の経験に基づく“意見”を持っているので、「へーそうなんだ」より「いや、それは違う」になりやすい。
・研究者と現場の教育者が兼業、または非常に近い存在である
英語教育では研究者のほとんどが大学で教壇に立つ教育者だし、教員が研究をすることもある。
さらに、英語教育に携わる人は、その多くが日々英語を使う人でもある。
これは、たとえば芸術のように創作と研究がくっきり分業になっている分野にはあり得ない、ややこしい要素。
教育において理論と実践が直結しているのは、もちろんその利点があってのことだが、ある方法を実践しながら、同時に業界全体をざっくり網羅した上澄みのひとつまみを提供するというのは難しいだろうなと思う。
教育者はどうしても何らかの哲学をもって、目の前の人間を相手に、自分が良いと思うものを選んで提供するものだからね。
・オーディエンスの興味が「自分はどうやったら英語ができるようになるか」という一点にほぼ集約されてしまっている
「絵本」を提供したところで、「それはいいから、早く英語ペラペラになる方法を教えてよ」ってなことになりそう。
・よくわかっている人ほど、「101」的な話がしにくい
教材屋さんや英会話屋さん、「自称カリスマ」などが単純明快なストーリーを発信して注目を集め、学習者を惑わせるという現状があるため、研究者や教育者はむしろそれにストップをかける側にまわる、という事情がある。
「待ちなさい、実態はもっと複雑で、一筋縄にはいかないのだよ」という役目をしながら「絵本」を書くというのは難しいだろうなと思う。
うーむ。
でもなぁ、そうは言っても何かやり方はありそうな気もするんだよな。
みんなが知ってるつもりだからこそ、あえて「101」っていうのはアリだと思う。
誰かやってないのかなぁ。
イメージとしては、「英語ってこういうもの」「文法ってこういうもの」「発音ってこういうもの」「語彙ってこういうもの」などを解説して、「それを知ると、ほら、英語はこういうふうに見えてくるでしょ」という説明をして、「教える人はこういう工夫をしてるんだよ」「今のところ、これがわかってるよ」「まだわからないことはたくさんあって、それを研究者は探してるんだよ」とか、そんな構成。
ちゃんとわかっている人たちが集まって、悶絶しながら、あえて知識の上澄みの、ほんのひとつまみをさらに薄めて、子どもにもわかる「絵本」を提供すべく、知恵を出し合う。
言いたいことは山ほどあるけど、グッと飲み込んで、ひとまずいちおう“満場一致”な「101」を作り上げる。
良質の「101」が存在していれば、現場の先生にとっては大まかな基準になるし、学習者は今ほど翻弄されずに済むかもしれないし、独自性だけで疾走する不思議な勢力は多少おとなしくなるかもしれないし、“有識者”の皆さんのお役に立つかもしれないし。
「細かいことを言い出せばキリがないけど、とりあえずこれを押さえておけば、大きくは間違えない」が抜けているから、あっちこっちに翻弄されて、時間やエネルギーを無駄にして、成果につながってなかったりもするのかもしれないし。
…と思うんだけど、どうかなぁ。
「英語教育101」の前に「教育101」が要るような気もするな。