教育者トレーニング

アメリカの大学のTAから相談を受け、日本の教育者養成トレーニングについて考える。

アメリカの大学院で、特に博士課程に所属している学生の多くは、Teaching Assistant (TA)というポジションを得る。
TAといっても、日本の場合は授業を担当する教授のもとで採点などのお手伝いをする程度らしいが、アメリカの場合はこのポジションによって学費が免除されたり、それなりのお給料をもらったりしているので、それに見合う働きが求められる。
もちろん教授の“助手”として仕事をすることもあるが、TAが学科からクラスを完全に任されることも珍しくはない。
自分の名前でクラスを担当し、1学期分のカリキュラムを自分で組み、授業をおこない、学生の成績をつける。
うちなんかは教育の学科なので、たとえばTAが自分でクラスを創設し、自ら学生を募集して提供することもある。

受講する学生の側は、相手がProfessorだろうとTAだろうと、授業料は同額だし、自分の単位に関わることなので、それなりに真剣。
つまりTAにはそれだけの責任があるということ。

今回の相談者は、TAとして学部生向けのクラスを受け持った大学院生。
学部生を相手に、生まれて初めての“教壇に立つ”という経験をして1年(2学期)が終わったところ。
学生から想定外の反応があったり、自分の力不足を感じる場面があったりして、今後、将来的に再び教えることに対して不安があるという話だった。
私は、たとえば過去に日本で教えていたし、アメリカで“助手”をしていたこともあるし、そもそも心配性で慎重だし、TAとして教えたクラスは修士レベルで相手は言語教育専攻の大学院生だったので、彼女とは事情が異なる点が多々あるが、いちおう“相談業”をやっている身なので、自分の経験とは別に、彼女の不安を共有し、改善のためにどうすればよいか、一緒に考えた。
幸い、話したことによって相談者はかなり考えが整理でき、行動目標として立てた内容を相談直後と翌日にさっそく実行できたようなので、いくらかお役に立ったのではないかと思う。

それはいいんだけど。
私にとってはアメリカと日本の教育者養成における違いについて、改めて考える機会になった。
たとえばこうしたTAのような、大学レベルの教育者としての、厳しくも有意義なトレーニングを、日本で実現することって可能なのかしら。

日本人がアメリカに来て、アメリカ人を相手に教えるということには、言語・文化的なハードルが立ちはだかる。
これは想像しやすいだろう。
たとえば英語に関していえば、こっちは非ネイティブ、あっちはネイティブ。
こっちの受けてきた教育の方法、教室や学校の文化をあっちは知らないし、あっちは“多数派”だからこっちの事情を慮る必要がない。
アメリカの学生の多くは、自分たちが経験した以外の教育方法や教育文化が存在することすら知らないし、知らなくても別に構わない。
外国人のTAは完全アウェイで圧倒的不利、というのが真っ先に思い浮かぶイメージではないだろうか。

しかし実際には、アメリカ人たちは“ガイジン”に慣れており、特に大学へ高等教育を受けに来る人たちが非ネイティブな英語を問題にすることは少ない。
まぁ、学生が「講師の英語が聞き取れない」「アクセントが苦手」と言って受講をドロップしたという話もないわけではないし、それを聞いた留学生TAたちが密かに凹んでいるのも知ってはいるが、私はアメリカの大学院で教育実習を見てきた経験から、それはアメリカ人TAや実習生たちが「早口すぎる」「説明が下手」と言われて傷つくのと同じだと思っている。
初心者なんだから、しょうがないよ。
ドロップする学生は、どうしたっているもんだしね。
また、“異文化”についても、言語同様にアメリカ人たちは慣れているし、教育レベルが高ければ高いほど、「異文化を受け入れ、appreciateすること」や「それはさておき、学ぶべきところを見出すこと」を、彼ら自身が自らのプライドをかけて態度で示すので、あまり問題にならない。
たとえば日本人をはじめとしたアジア人TAは、準備の綿密さや人当たりの良さ、親切、マメ、丁寧なフィードバックなどに定評があるが、往々にしてTAの側は「普通のことを普通にやっているだけ」という感覚だったりする。
このあたりは、異文化が功を奏しているのだろうと思う。

アメリカの教育者養成にあって、日本では実現しにくいと感じる最大のものは、学生からの反応である。
授業中、もし説明がわかりにくければ、学生たちの表情はグッと険しくなり、手が挙がり、発言を明確にすることが要求される。
こちらの話が響けば、笑いが起きたり、表情がパッと明るくなったり、目が輝いたりする。
的外れのトンチンカンな質問を、とんでもないタイミングで遠慮なく放り込んでくる。
他の学生からの質問に学生が割り込んで答え、議論になり、ヒートアップすることもある。
話しだしたら止まらない学生もいるし、それを冷ややかに引いて見ている学生もいる。
プライドを傷つけられ、声を荒げ、反抗的な態度をあからさまに示す学生もいる。
授業が盛り上がり充実していれば、拍手が起き、「素晴らしかった」「ありがとう」などと言う。
学期後のCourse evaluation では歯に衣着せぬコメントをたっぷり書く。

だからアメリカのTAや教育実習生たちは、もれなく落ち込み、時には教室へ向かうのが怖くなる。
TA同士でグチを言い合ったり励まし合ったり、“先輩”に助言を求めたりして、どうにかこうにか荒波を乗り切る。
しっかり凹んで、きちんと立ち直って、強くなって、強みを洗練させていく。
教育者として一生つきまとう自己鍛錬の一歩目を、その入口の手前で経験するというわけだ。
それで「自分は教育者に向いてない」と感じたら、それこそその時点でドロップすりゃいいしね。
アメリカの教育全体には問題点が山ほどあるけど、高等教育のうち特に上層の教育が安定して高品質なのは、多くの教員が学生時代にTAを経験したうえで、覚悟を決めて、プロの教育者として独り立ちし貢献することを自ら選択しているというところに一因があるのではないかと思う。

一方、日本のように生徒/学生/受講生からの手応えが得にくい環境では、教育者養成という数ヶ月~数年の短い期間に、実習生がしっかりと濃い経験を積むことは、とても難しいのではないかと思う。
ひょっとしたらプロとして教壇に立つ人も、学生からの反応に無関心で、なんなら反応されないように気をつけていたり、何の反応もないことを良しとしているかもしれない。
そういえば「寝ている学生は邪魔にならなくて良い」というのを聞いたことがある。

教壇に立つ以上、立つ側は毎回、知識や説明力やコミュニケーション力を試される。
学生の貴重な時間を使い、こちらの指示で動いてもらう以上、対価のない無駄なことをさせて帰すわけにはいかない。
それは日本でもアメリカでも同じなんだけど、日本のように教育を受ける側の反応が薄いと、教育する側のdiscipline やプロ意識によっては、教育者として鍛えられる機会を逸したまま、教壇に立ち続けることが可能になってしまう。

日本の学生・生徒のみなさん。
より良い教育者を養成し、教育の質を高めるため、ご協力をお願いします。

ま、ただ、そうはいっても日本の場合、Accusation-Biased(参照)で「評価イコールダメ出し」みたいな文化が根強いので、推奨しにくいところはあるんだよね。
リーダーシップもまだまだだしね。
「学生・生徒の反応を促進なんかしたら、学級崩壊になる」というfear がある先生も多いだろうし、自分の受けてきた教育を疑うことなく粛々と次世代に受け継ぎたい人もいるだろうし、学校経営的には人手不足になっても困るだろうし、“お客様”な保護者や生徒/学生/受講生のご意向に沿いたい気持ちも強いだろうし。

勇気と実力のある方から、少ーしずつ、草の根で、じわじわと…ってとこかなぁ。
教育の話はいつも気の長い話。

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