「ガバナンス」という日本語から、またカタカナ語の話。
最近、知事になったらしい人が「ガバナンス」という言葉をよく使う。
「組織としてのガバナンス」とか「ガバナンスが効き過ぎている」とか。
あるインタビューでは「東京という会社の、企業でいうガバナンスをわかりやすくする」というような言い方もしていた。
「Governor なだけに?」と思ったけど、特にシャレというわけでもないみたい。
知事は英語も堪能なので、それとこれとはくっきり分けているんでしょうな。
日本語の「ガバナンス」はほぼ「コーポレート・ガバナンスの略」という印象(参照)。
「略」って。
複合語の立場ないじゃん。
“ビジネス用語”(参照1 参照2 参照3)なのも、「コーポレート」が隠れているからだろう。
アクセントは平板で「ガバナンス ̄」。
「統治」「支配」「管理」などだと、なんというか直接的で当たりが強すぎて、生々しいからかな。
「そんなの嫌だ!もっと自由を!」と反発を食らってもいけないから、忖度して、カタカナにして、なんとなくぼかして、ソフトに、穏便に行きましょうってことになったのかしらね。
これ、カタカナ語の典型的な利用法だと思う。
外来のモノや概念ではなく*、すでに日本語にある語をわざわざカタカナ語に置き換えることにより得られる効果は以下のとおり。
①目新しさを前面に出して、人々の注意を引く。
②意味をよくわからなくする。
③特定の文脈でしか使わない専門用語化/ガラパゴス化を施すことで、原語の意味から切り離して独自の意味を持たせる。
④カッコよさや賢さを付与し、専門知識風の色付けをして、隠語のような機能を備えさせることで、カタカナ語を使う人と元々あった日本語を依然として使う人との差別化を図る。
⑤キーワードに世間の注目が集まっているうちに、別の何かを進行させるとスムーズに事が運ぶ。
要するに、賑やかしや目眩ましで煙に巻いたり、優越感に浸ったりするのに役立つ。
カタカナ語に対して下品さや悪趣味さを感じることが多いのは、こうした効果のせいだろうと思う。
聞き慣れないカタカナ語が登場すると日本の人々はまんまと目新しさを感じてしまうので(①)、すぐに流行語のようになって日本中のあちこちで耳にするようになる。
多くの人は原語が何語かも知らないし、意味もわからない(②)。ただ、広く使われている以上、「いまさら聞けない」というような気も働いて、わかったようなわからないような、なんとなくの雰囲気でやりすごす。
そのうち、使われる文脈が固定化し、独特の意味を持ち始めるので(③)、原語(例:governance)の意味を知る人ほど混乱したり、ついていけなくなったりする。
で、結果的に一部の人が一時的によく使う語となって、多くは目新しさが失われる頃に、役目を終えて消えていく。
私はカタカナ語の隆盛と、日本人の英語力の間には、負の相関があると思っている。
いずれ日本人が普通に英語を使えるようになったら、カタカナ語はダサく感じられるようになり、誰も使わなくなるだろう。
英語の学習を通じて日本語の感覚が磨かれれば、外来語と外国語を区別し、外来語とカタカナ語を区別できるようにもなるだろう。
そうなるまでは、日本語の海の水面に、カタカナ語がギラギラ浮いたような状態が続くのだろう。
*カタカナ語のすべてを「日本語にない新しい概念が輸入された結果」と捉える人もいるようだけど(参照)、だとすると、「知事が対立しようとしている旧態依然とした組織には“新しい概念”が長年、がっつり根を張っていた」ってなことになっちゃうよねぇ。