『高校英語授業を知的にしたい』

『高校英語授業を知的にしたい』を読んだ。

日本の高校・大学で、特に英語を専門としていない学生、英語が得意な学生も苦手な学生も一緒になって受ける授業を「知的」にしようという試み。
本書では「知的・論理的英語力を育てる8つの指導原則」(pp.7-9)をもとに実際に教室でおこなわれた授業が9例、実践報告の形で並べられている。
最終章では大学入試問題の丁寧な分析がなされ、こうした授業を通じて養われる知的・論理的な能力が、世の言説に反して実はすでに英語科の入試で問われていることを示す。
研究者と現場の先生の、「英語」と「英語科」の、あるいは「教育」と「英語科」の連携とはこういうことだよなぁと思った。
夢いっぱいのキラキラした幼児・小学生向け英語や脅し商法とは違い、「ほとんどの学生は将来英語を使うような仕事には就かない」(p. 156)などがっつり現実に即した愛情あふれる内容が、現実的な私の好みに合っていて、最初から最後まで落ち着いて心穏やかに読むことができた。

いろんな切り口でいろんな感想を持ったので、ざっくり書いてみる。

まずは私自身の経験と絡めて。
常々言っているとおり、私の主たる活動場所は「教育」である。
私が「英語教育」と言うとき、「教育」は「英語」よりずっと大きなフォントで、太字で、下線がついているのである。
TESOL出身者の多くが言語学や応用言語学など、「英語」の道へ進むということを知らなかったために、うっかり教育に流れ着いてしまったのだが(参照)、今はその幸運をとてもありがたく思っている。
本書第9章では「英語教育が教育の一環である限り英語教育学は教育学を疎かにするべきではな(い)」と明言されているが(p.255)、それ以外の章でも教育者が学習者を応援し、見守り、手助けをする場面がふんだんに描かれていて、読んでいてうれしくなることが多かった。

実践報告については、TESOLの教育実習を担当する中で、日々大量のレッスンプランを読み、指導していた頃のことが思い出された。
私が見ていた実習生の中に日本人はいなかったが、もしいたとしてもアメリカのESL受講生を相手に、これほど綿密なプランを書くことはなかっただろう。
自分が実習生時代に書いていたレッスンプランを思い返しても、まぁ他の学生よりは細かく書いていたような気がするが、それは私が心配性で自信がないせいであって、実際の授業では「けしかける」部分だけきちんとしておけば、あとは受講生の動きに任せるということが許されていた。
本書に載っている9例がここまで詳細に計画され、セーフティネットが至るところに、何重にも用意されているのは、一般的な日本人学生の想像力のなさや、動きの鈍さを示しているのだろうと思う。

「学生たちは、これまでの英語授業でこのような知的吟味活動をほとんど経験してきていない。そのために、最初から教師が正面きってこのような活動を提示すると、拒否反応が強い。」(pp.16-7)
「自分と同質の意見は理解しやすく安心できるので声高に賛同できるが、自分とは違うあるいは変だと感じられるような意見は理解するのに時間がかかるし、反対するのにも勇気がいるだろう。」(p.194)
「(英語で言いたくても言えなかった表現を書き出すという指示に対し)学習者は後に自分で辞書を引いて調べなければならないと思い、「言いたい英語表現」が集らなくなってしまう。」(p.203)
「内容理解のQuestionには答えることができるのに、自分で物語の重要な個所を探し出し、それに対する問いを作るということができない学生の多さに驚いた。」(p.236)
などは、まさに現場で日本人学習者を見ている先生ならではの観察だと思った。

私は日本人だけが集まる教室から離れてずいぶん経つので、そう言われてみればそうだったような気もするが、「本当かよ」という気もする。
そうだとすると、ここ数年で私が出会った日本人の高校生・大学生はずいぶん異端なんだな。
それとも、彼らも他の日本人学生と一緒に集団を形成するときは、クウキを読んで自分もそういう学生になって、うまく溶け込んでいるのだろうか。
どこかで日本の高校・大学の授業を見学させてもらえたらなぁ。

実践報告の例は、これを読んだ日本人英語教師が自ら実践できるように工夫されている。
レッスンプランが綿密で、説明が懇切丁寧なのも、他の教師がイメージしやすいようにという配慮の表れだろう。
教材のありかも明記してあるし、「自分はこういう失敗をしちゃったから、気をつけてね」的な注意事項も書いてある。
「自分の慣れた授業スタイルを変えることは、以前はとても不安だった。新しい活動を授業に取り入れ、想定外のことが起こることを恐れていた。」(p.106)など、各章の筆者たちが実践の前後を比較して自身の変化・成長に気づく場面の素直な描写や、「真面目な教員」への指摘(p.121)、「授業づくりの際に、今回の題材で生徒に考えさせたい「問い」は何かを、教員が考えるようにすること。」(p.153)など具体的なアドバイスが示されているのも、同じ立場の者として共感し、“二の足”を踏みがちな先生方の背中を押す意味があるのかもしれない。

とっても親切で優しくて素晴らしいんだけど、さ。
すでに意味がわかっている先生向けの“レシピ”としてはややクドいよね。
これもまた、一般的な日本の英語の先生方の動きがいかに重いかを示しているのかなぁと思う。
確かに、まぁ仕方がないかと思わなくもないが、でも、大人だし、業務だし、プロなんだし、ねぇ。
そこまで言わなきゃダメかなと思いながら読み進めると、終盤になって「英語教師の多くはややもすると風見鶏、あるいは風に流される風船のように、断片的な報道と文言にいたずらに不安を煽られるか、実際に火の粉が降ってくるまでは自己の実践とは無関係なものとしてやり過ごしている現状がある」(p.286)と手厳しいお言葉。
うーん。そうかぁ。やっぱりそうかぁ。

「これまでの英語授業でこのような知的吟味活動をほとんど経験してきていないために、最初から正面きってこのような活動を提示すると、拒否反応が強い」のかしら。
「内容理解の授業を作ることはできるのに、学生に自ら考えさせる授業を作るということができない」のかしら。
だとすると、この本を読んで即座に実践、というわけにはいかないだろう。
この本を読んで、内容を理解し、自分の教室に応用したらどうなるか想像させるという「下位の思考スキル」(p.122)から始めて、「実践報告」にツッコミを入れる、評価する、自分でレッスンプランを作る、という「上位」にまで引き上げてあげる何かがないと、いきなり独り立ちは難しいんじゃないかな。

『知的にしたい』というタイトルの本なので、現状、英語授業が知的でないというのを前提にしていることは明白。
「授業が、英文内容の理解でストップしてしまうことは、読みを不自然にするばかりでなく、読んだ内容に対する鈍感さを植え付け、生徒/学生の知性にとって有害な影響を及ぼしかねない。」(p.4)
「授業は(駄文や論理・論調に問題のある英文に対する)疑念には目もくれずに、内容理解チェックが済んだら次の英文に移っていく。」(p.4)
「長期間にわたって英文を読み無批判に内容を受け入れる作業を続けることによる、洗脳的効果」(pp.4-5)
「(初めて自分の気持ちを英語で言って、感動している学生たちは)おそらく、それまでは英語を用いることがパズルのような頭脳労働か、あるいは自分の思いや感情に関係のないことを述べたり聞いたり読んだりする作業をさせられていたのであろう。」(p.267)
“代数”ですな。(参照

このあたりは、たとえば日本と海外の大学生をつないで10分間の会話をさせたとき、海外の大学生が中身のある会話をしようと情報を提供したり相手の理解を確認しようとしたりしても一向に協力する様子を見せず、ただ明るく楽しく軽やかに、型どおりの質問を投げつけ、答えも聞かずまた次の質問を投げつけて10分間をやり過ごそうとする日本人大学生の態度の裏付けになるだろう。
彼らに悪気はないのだ。
彼らはそれまでの英語授業によって「英語とはこういうもんだ」と教えこまれてきたのだ。
本書が目指す啓蒙活動が実って、日本の英語の授業が知的になるまでは、そういう日本人英語話者が生まれてしまうのは仕方がないのだ。

全体的な感想としては、以下3点。
私の日本人学生観、特に集団としての日本人学習者観はズレているかもしれないこと。
日本の英語の先生方についてまだまだ知らないことが多そうだということ。
そして、私の将来はますます不安だらけだということ。
日本人向けの英語教育というとんでもない世界のどこかに、自分の何かが役に立つなんてことがあるのだろうか。
途方に暮れる。

三浦孝、亘理陽一、山本孝次、柳田綾(編). (2016). 高校英語授業を知的にしたい:内容理解・表面的会話中心の授業を超えて. 研究社.

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