選挙と学習

選挙が終わって、思うこと。

選挙前はテスト前に似ている。
急にやる気になって、急に情報に敏感になって、急に頭を使って、急に議論なんかもして、急に賢くなったような気がする。
「そうか、そういうことだったのか」という発見が相次いで、さらにやる気になる。
これを続けると、何かすごいことができそうな気さえする。
“選挙/テスト前”の意気込みが日常になったら、それはそれは大きな力になるだろう。

選挙後もテスト後に似ている。
直後は解放感と脱力感にあふれ、獲得した点数や結果に一喜一憂する。
それから数日もしないうちに、“選挙/テスト前”に持っていたやる気も情報収集力も、頭を使う感覚も、覚えたことも議論したことも、すっかり消えてしまう。
「これを続けると、何かすごいことが」と思ったことさえ忘れてしまう。

で、またのんびりした生活に戻り、次の“選挙/テスト前”が来たら急にがんばる。
ダ・カーポ。

これが、中間テストや学期末テスト、あるいは入学試験や資格試験によってじわじわと身につけされられた日本人の学習習慣だとすると、その浸透具合は大したものだと思う。
そして、それが政治的に利用されているのだとすると、政治家のもつ自国民に対する理解は見事なものだと思う。

本当の学習には、「学期」「学年」などの区切りも、「合格者」「不合格者」などの明確な線引きも、「前」「後」「終了日」などのスケジュールも存在しない。
学習はなだらかにずっと続いて、終わらない。
テストや試験は、その長く続く学習の途中途中に、そこまでに得たと思われる成果を可視化し、資料をつくるためにある。
その資料が示すのは学習者本人の能力や努力だけではない。
テストや試験は、それが健全なものであれば、学習者に与えられている教材や学習の方法、学習を指導する人物を含む環境そのものの質や、学習者との相性を査定する機会となる。
だからそこで得られた資料は、軌道修正や方向転換が必要か否かの判断材料となり、環境改善など、次に学習者がとるべき行動の根拠となる。

学習はずっと続く。
終わらない。
それがわかると、テスト前に急にがんばることも、テスト後に急に腑抜けになることも、よく考えたらおかしいことに気づく。
ある意味ではテストなんてあってもなくても、どっちでも構わないということになるだろうし、ではテストはなぜあって、あるとどう良いかを考えることにもなるだろう。
教育がこれを浸透させることに成功したら、選挙が変わり、政治が変わるのかもしれない。

それが政治的に利用しにくいことを知ったうえで現状を維持しようとしているのだとすると、政治家のもつ自国民に対する理解は見事なものだと思う。

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