うっかり

上級言語コーチ講座、中盤まで来て、ふと気づいたこと。

受講を決めた時点や実際にクラスが始まった頃は「言語コーチの、上級版」と思っていた。
ま、脳のこととか、やる気や態度の話は「言語」に限ったことではないけど、私はなんとなく「言語学習」の枠内で捉えていて、すべてを言語学習者に限定して考えていた。

コースが進んで、「これ、言語と直接関係ないよなぁ」と思うことが増えてきた。
“宿題”がらみで、学んだことを友人に説明したりすると「それ、言語学習にどうつながるんですか?」と聞かれたりもする。

で、徐々にわかってきた。
この上級講座は、「コーチの上級版」で、軸はライフ・コーチング。
言語コーチングはその一部として時々登場する、という位置づけ。
そういえば、この講座はContinuing Coach Education(参照)の認定講座だし、Associate Certified Coach(参照)へ進む条件である60時間にも適用されるのだった。

だからクラスの中で、「これを言語コーチングにあてはめると…」とか「言語学習者には合わないかもしれないけど…」とかがちょいちょい出てくるわけね。
実習のネタが人生相談なのも、そういうわけね。
なるほど。

というわけで、私は知らないうちに、うっかりライフ・コーチングを学び始めてしまった。
知ってたら「ライフはやんないから、パス」って言ってたかも。
知らずにやってみてよかった。
コーチング全般に共通する部分をおさらいし、コーチとして腕を磨くのはもちろん、ライフ・コーチングの知識を身につけることで、言語コーチとして深みが増すというか、辻褄が合う感じがする。
考えてみたら、日本人が英語を学ぶ場合にも、留学や転職や転勤や昇進や外国人との人間関係など、ライフに直結している部分が多々あるわけだし。

言語に特化した言語コーチ講座で学んだ後、その上位カテゴリを学んで、結果的に言語コーチとして考えを深める。
この経験、どっかでもあったなぁと思った。
で、思い出した。
大学院での経験とそっくりだ。

TESOL(英語教育)で修士をやった後、博士に進む場合、言語学や応用言語学を選択する人が多い中、師匠のタクラミで裏口から入った私は、うっかり、教育学の博士に進むことになった。
始まった当初はその意味がわかっていなかったので、他教科の先生や州の教育省の人たちや教育政策や大学経営を研究する人たちと一緒に、さまざまな授業やプロジェクトに参加しながら「うーん、私には関係ないなぁ」と思うことばかりだった。

TESOLで文法や音声や授業準備や教え方といったガッツリ現場の実用的なことをやっていたのとは全然違う。
言語学や応用言語学に進んだ友人たちは、フィールドを研究に移したとはいえ、あいかわらずガッツリ言語のことをやっている。
それにひきかえ、私は現場からも言語からも離れ、アメリカ国民向けの教育事情とか、数学や芸術の教育とか、まるで縁のない世界に巻き込まれている感じがしていた。

TESOLから博士へ進んだ仲間たちは、みんなその後の展開をきちんと考えてプログラムを選んでいた。
私は進学するつもりもなかったし、何の下調べもせず、本当にうっかり入っただけ。
「不真面目のツケが回ってきた」「来るところを間違えた」と思っていた。
周りには英語モノリンガルが多く、ガイジンは私だけ、という場面も多かった。
「こうなるとわかっていたら入らなかった」とも思った。

が、そこでの経験はやがて不思議なつながりを作りはじめ、ぼんやりと、「あ、そういうことかな」と思うようになった。
上位カテゴリの教育学や哲学を学ぶことで、教科や立場や国・地域を超えたところにある、いわば源のようなものに触れることになった。
私を含む学生たちは、それをそれぞれの“現場”に持ち帰り、以前とは違う角度でモノを見て、以前とは違う深さで考えるようになった。
学び、よりよく生きていこうとする人として学習者をとらえ、世の中に無数に存在する学習対象の1つとして、第二言語を見るようになった。
言語だけに特化した道を進んでいたら、私がこの感覚を知ることはなかっただろうと思う。

で、それからしばらく経って、コーチングの世界でまた似たような体験をしている、というわけ。

調べもせず、王道じゃないところにうっかり紛れ込んで、「あぁ、間違えた」と思ったら、結果オーライ。
どうやら私にはそういうクセがあるらしい。

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