上級言語コーチのトレーニングにて。
あいかわらず、さんま御殿に出る若手芸人の気分(参照)。
毎回ヒリッヒリ。
それはいいんだけど。
コーチングとEmpathy(共感、相手の感情を理解すること)は切っても切れない。
自分の気持ちを理解しようとしない人と深い話なんてできないもんね。
なので、Empathy を持っていることは、ある種コーチになるための必須条件とも言えるかもしれないが、だからと言ってコーチングの世界に足を踏み入れるにあたり、たとえば入口でEmpathy のテストを受けるわけではない。
適性を欠いた人が間違えて入ってしまうことも、理論上はあり得る。
が、実際のところはテストなんてなくても、コーチ養成のトレーニングや研修にはEmpathy をたっぷり持った人が自然と集まってくる。
そもそも言語学習者を助けたい人たちだからかなぁ。
特に上級に進む人たちは、もう、それはそれはempathetic な人ばかり。
じゃあもうEmpathy について習うことなんてないんじゃないの?と思うかもしれない。
もともとEmpathy があって、コーチになって、日々Empathy を駆使してさらに鍛えているような人たちが、改めてEmpathy について教わる意味とは?
講師のRはまずビデオを見せた。
戦地へ行っていたアメリカ兵の若いパパが帰還し、サプライズで息子の通う幼稚園に姿を現す。
パパに気づいた息子はくしゃくしゃの顔でパパに駆け寄り、首に絡みついて泣きじゃくる。
Rは私たちに「どうだった?」と聞く。
ほとんどの人が「泣けた」と答える。
「こういうのに弱い」「すぐ泣いちゃう」。
涙や表情を含め、身体のどこがどう反応したかを報告し、脳と体の関係やvagus nerve(迷走神経)について確認。
で。
そのうえで。
それをdominate することを学ぶ。(dominate = 支配する、抑える、より優位に立つ)
Empathy やCompassion は大前提。
それがなければ傾聴はできないし、学習者を助けることもできない。
でも、それに引きずり込まれてはいけない。
たとえば学習者が泣きながら辛い経験を話す場面で、コーチが一緒になって泣いていたら、それはコーチング・セッションにならない。
自分の感情をしっかりコントロールしてコーチの役目をきちんと果たすこと。
Vは「目の前にコーチする対象がいる場合は割り切ってできる」と言った。
うん、わかる。(←共感)
視聴者のときとコーチのときとでは、受け止め方も、受け止めた後の処理も全然違うもんね。
受け止めた後、どうするかが私たちの仕事だもんね。
Yは「empathetic になりやすい傾向があるので切り離すのが難しい。気をつけないと」と言った。
わかる。そうなのよね。(←共感)
相手のDrama に巻き込まれないで、業務をきちんと遂行すること。
しっかりと肝に銘じておこう。
それで考えた。
主に業務外で、私がempathetic になりすぎてしまうことがあるのは、実は割り切れないんじゃなくて、割り切っていることが伝わりにくいという想定のもと、そのリスクを回避しようとしているからじゃないだろうか。
「共感をした上で、示さない」というのが、「共感していない」と一緒くたにされる恐れがあって、「共感力のない人」と思われたくない、だから「共感してますよ」とわかりやすく示したがる、と、そういうことのような気がしてきた。
んまー、いやらしい。
下心満載じゃないの。
なに?「私って優しいでしょ」アピール?
だっせー。
それは結局、自分の利益のためじゃん。
気持ち悪っ。
ダサくて気持ち悪い上に、厄介なことになったりもするんだから、踏んだり蹴ったりじゃん。
やめましょ。
「共感をした上で、示さない」。
たとえ「共感してもらえなかった」と思われることがあっても、それを恐れない。
それは誤解なんだから、いいじゃないの。
そんなところで、その場限りの“優しさ”を売りつけたって、何の意味もない。
まんまと売れたとしても、やっぱり意味がない。
しっかりしよう。