らしからぬ

「らしからぬ」を好む人について。

世の中にはいろんな人がいて、「らしくあろう」と心がけている人もいれば、「らしくなくあろう」と心がけている人もいる。

たとえば日本人英語学習者なら、外国に住み、英語を話していようとも、「日本人らしくあろう」と思っている人と、外国に住み、英語を話しているんだから「日本人らしくなくあろう」と思っている人とでは、学習を含むさまざまな行動や考え方に違いがある。
英語使用歴や外国滞在歴が長くなればなるほど、その違いは大きくなってくる。
誰かに「日本人らしくないね」と言われたら、前者は傷つき、後者はうれしく感じるのである。

「らしからぬ」を好む人は、目立ちたい、アッと言わせたいというような「+注目欲」(参照)が強い場合が多い。
いわゆる世間一般など、自分をよく知らない人から「意外」「そうは見えない」「イメージと違う」などと言われることが快感なのだろう。
ちなみに、その反面、家族など一部の近しい人たちに対しては「本当の自分を知ってほしい」という欲求がとても強い。

「らしからぬ」の人は努力家である。
「らしからぬ」を実現し、注目を集め続けるためには、一般にわかりやすい実績を積んでこまめに発表しなければならない。
そして何より「らしさ」に精通していなければならないので、常に社会に目を向け、大勢の人と交流し、周囲の動向を敏感に察知し、すぐ反応できるようにしている。

つまり、「らしからぬ」を好む「+注目欲」の人は、“世間”や“普通”を非常に気にしているのである。
おそらくは彼ら自身も本当は“普通”の感覚の持ち主で、そこに強いコンプレックスがあるのだろう。
「らしくあってはならぬ」という縛りを自らに課しているのかもしれない。
“普通”を熟知し、それを踏まえたうえで、あえて“普通”じゃないことをやってみせる。
それが世間の期待を裏切ることになり、想定どおり、世間が驚く。
そこに喜びがあるのだろう。
「世間を動かしている」という錯覚に陥ることもあるかもしれない。

自分の職業や年齢や立場と同じ人々を熱心に市場調査し、世の中の最新の動向を踏まえ、多数意見を聞き、もっとも“普通”と思われる要素を抽出して、それと正反対の言動をとってみせる。
これが「らしからぬ」を好む人の典型的な行動パターンだろう。

こうした行動は、一見したところ悪しき習慣を断ち改革を起こす人の動き方と似ている。
しかし、改革を起こす人というのは往々にして自らの決断に「痛み」を感じるものである。
「快感」を求めて行動を起こすのとはむしろ対極にあるだろうと思う。

「らしからぬ」を好み、「らしからぬ」になりきれず、無理が生じ、後戻りもできず、立ち往生する人もいる。

皮肉なことに、そもそも「“普通”でなくあろう」と一連の努力をしているということ自体、彼らがいかに“普通”であるかを証明している。
彼らが、自らの描く“世間”から抜け出したいと思えば思うほど、一目置かれようとすればするほど、彼らがいかにその集団から逃れることができないかが伝わってくる。
逃れられないのは事実であり、逃れる必要もない。
おそらくは本人もそれを自覚しているはずだが、何らかの事情があって、認めたくない気持ちが強いのだろう。

「らしからぬ」の魅力にとりつかれ、必死に「らしからぬ」を演じ続ける人の中には、それがエスカレートして、やがて「あるまじき」まで行ってしまう人がいる。
「らしからぬ」と「あるまじき」に明確な境界線はなく、仮にある時点で一線を越えてしまっても、それまでに自らが培ってきた「らしからぬ」な自分像に世間も自らもすっかり慣れてしまっているから、「あるまじき」の手前で踏みとどまることは非常に難しい。
気がついたときにはもう「あるまじき」のずいぶん深いところに到達してしまっている。

「らしからぬ」のうちはそれを好意的に受け取り、ちやほやしてくれていたはずの“世間”は、「あるまじき」が発覚すると攻撃に転じる。
この時点でようやく世間の側も告白を始める。
「そういえば、そうだった」「おかしいと思った」「どことなくバカにされているような気がしていた」「実は好きじゃなかった」。

しかし、これもまた「+注目欲」の人にとっては快感だろう。
たとえ非難であっても叱責であっても、世間が自分に注目してくれているうちはまだうれしい。
「+注目欲」の思うツボなのである。
「あるまじき」を省みることもない。
そして世間の心が完全に冷め、注目されなくなって初めて慌てることになる。
気の毒なことだ。

「らしからぬ」も「+注目欲」も、それ自体に害はない。
好みの問題でしかない。
ただ、“世間”や“普通”に対する意識が強い彼らは、世間が自分の「らしからぬ」を「あるまじき」へと導き、「あるまじき」を助長し、自らを苦しめるように仕掛けてしまう。
自らの「+注目欲」が膨らみすぎて、訳わかんなくなって、コントロールできなくなって、暴走してしまう。
最終的には、何よりも強く求め、努力してかき集めてきた注目をすべて失うことになる。

各種メディアの発達により「+注目欲」は満たされやすくなっている。
しかし、増幅しすぎた自らの注目欲に自らがつぶされる例もすでに出てきている。
「+注目欲」を野放しにしておくのは危ないと思う。
そろそろ対策が必要なんじゃないかな。

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