受験英語と受験後英語

受験英語あたりの、考えごと。

昨日のワークショップで参加者から、「”It happens that S V”ってアリなんですか?」という質問が出た。

文の意味がわからないのではない。
ただ、それを言うなら”S happens to V”じゃないか、と。
構文として見慣れないので、非母語話者的、非文法的なものかと疑った、ということだった。

こうした質問は、言語を「なんとなく」扱っている人からは決して出てこない。
また、非母語話者の文法に対して慎重であることも、言語学習において重要な点である。
質問者の文法の力や言語に対する姿勢、学習者としてのレベルの高さが透けて見える。

ま、答えとしては「アリです」なんだけどさ。
ちょうどワークショップの中でも受験英語が話題に上ったので、そこに絡めて考えてみた。

私はずいぶん前にはいわゆる学校英語を教えていたし、受験生に関わっていたこともあるし、いちおう毎年センター試験に目を通すぐらいのことはしているが、今や受験英語については趣味程度にしか知らない。
最新情報を取り入れるという面では、大学受験にもっとも近いところにいらっしゃる高校の先生が入試問題を詳細に分析されているので(参照)、それを興味深く拝読するのと、受験をパスしてから日の浅い大学生が使う英語からだいたいのところを推測するぐらい。
なので、まぁ完全なるシロートとは言いがたいが、受験英語には詳しくない中途半端な立場で、以下、ぼんやり思うことを書いてみる。

たとえば今回の”It happens that S V”と”S happens to V”の件。
姉妹品として”seem”や”appear”などがあるだろう。
これら2種類の文は、いわゆる受験においてどう扱われているか。
まっさきに思いつくのは「書き換え」。
「次の各英文がほぼ同じ意味になるように、空所に適語を入れなさい。」みたいな、あれ。

で、受験生は「はいよ、待ってました」とばかりに、”happens that” を “happens to” に書き換えたり、逆を行ったりする。
マルをもらう。点が取れる。
おしまい。
それで受験を離れたら、どちらか好きな方を選んで、そればかりを使う。
だって同じもの2つを持ち歩くのは、かさばるもんね。

しかし、本当は同じじゃないんだよ。
複数の同じ語や表現がいつまでも並行して使われ続けるということは言語の経済性(参照)の観点から言ってもおかしい。
「えー、でも受験のとき、同じだと教わった」と思うでしょ?
問題を見ると「ほぼ同じ意味になるように」と書いてある。
受験英語は元受験生たちの記憶を操作しながら、自らは逃げ道をちゃんと確保しているのである。
「同じなんて言ってませーん。『ほぼ』付けたもんねー」ってなもんだ。

似たような、似てないかもしれないようなことは、大学生以上の日本人英語学習者の助動詞の使い方にも思う。

助動詞は受験英語的には難度の低い項目である。
かたちとして、「助動詞+動詞の原形」を覚えてしまえば、疑問文も否定文も積み木を単純に動かすだけで出来上がる。
あとは、「ほぼ同じ意味になるように」系への対策として、たとえば「must とhave to」「will とbe going to」のようにセットで覚えておけば、とりあえず無事に過ごせる。
マルがもらえる。点が取れる。
おしまい。

各助動詞の意味は受験前に習うけど、それは得点に直結するタイプの知識じゃないので、受験生が重要視する対象にはなりにくい。
それで受験を乗り切って、得点の関わらない“受験後”に英語を使う段になると、助動詞はなるべく使わないようにするか、自分のお気に入りのものを1つ見つけてそればかり使うようになる。
助動詞ひとつで表現の幅が広がり、ニュアンスが施され、心情がきめ細かく反映されるということに対して無頓着なまま。
もちろん、他の人が助動詞に載せて発信している意図にも無頓着なまま。

受験のために英語を勉強することを、私は否定しない。
“受験英語”と言われるものでカバーできる部分は文法的にも語彙的にも非常に広く、基礎を固めるのに有効。
とりあえず英語で最低限のコミュニケーションを実現するためにも、受験というきっかけで集中的に学習する意味は大きい。
ただ、いわゆる受験テクニックが、あるいはマルをもらったり点を取ったりした成功体験が、本来の目的であるはずの、受験後の英語使用に良くない影響を与えるということがあるんじゃないかなぁと、ぼんやり思うわけだよ。

今回のワークショップに限っては、参加者たちの英語力が高く、「答えはアリです」だけで事足りた。
いちおう、”happens that”と”happens to”を並べて「話者が文のどこにフォーカスしたいのかという気持ちの表れ」というような短い説明を加えたが、質問者は皆まで言わずともニュアンスを汲み取り、「アリだとわかれば安心して使える」と言っていたから、それでいいと思う。

文法力、言語的感性の高い学習者は、日々こうした気づきを得て、自身の言語力に磨きをかけている。
「母語(日本語)と第二言語(英語)」、あるいは「言語と認知」など、2つの間を行き来しながら、双方向に影響しあう作用を通じて、勝手に成長していく。

一方、それに達していない学習者は、たとえ同じ語や表現に出会っても、なんとなくスルーしている。
わかったような、わからないような、フワッとしたところで安住している。

すでに高いところにいるのに勝手に成長する学習者と、まだまだなのに安住している学習者との間に広がり続ける格差のようなものは、あって然るべきなのか、あってはならぬものなのかはわからない。
教育がなんとかすべき課題なのかどうかもわからない。
ただ、今回のワークショップで起きたように、学習者がそれ以前にはなかった新たな視点を持ち、自ら発見をし、そこで生まれた豊かさを自分の内側に蓄えていく瞬間に遭遇することを、私はとにかくうれしく思う。

「受験英語と受験後英語」への2件のフィードバック

  1. 拙ブログへのリンクありがとうございます。
    できるだけ冷静に考察し、丁寧に記述しているつもりですが、書いている途中で怒りが込み上げてくる部分もままあるので、お気づきの点はご指摘願います。
    今や「外部試験」という、「新たな受験英語」が出来つつあるので頭が痛いです。

  2. こちらこそ、いつもありがとうございます。

    >書いている途中で怒りが込み上げてくる
    笑 お察しいたします。

    受験英語と共存しながら目の前の学習者を守るというのは、技術・情熱とも並大抵の先生にはできないことだなぁと感じます。

    「なだらかに続く学習のある地点にたまたま試験がある」というような発想で受験の意味をまじめに考えられる人が増えてくれるといいですね。

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