わざわい転じて福となす。
ってか、「福にしてもらっちゃってる」。
立て続けに、まあまあの失敗をした。
ひとしきり凹み、自分を責め、自分に呆れ、失望し、先行きが不安になった。
もともとわりと救いようがなかったけど、いよいよ私は本当に救いようがなくなったのだと情けなくなった。
そのたびに、家族や友人や通りすがりの人や、関係各所や会ったこともない人たちが総動員で何とかしてくれた。
それで最終的には、「災難ではあったけど、良い経験になった」とか「あれはあれで、よかった」とか、暢気な感想で振り返るような結末を迎えた。
それで、気づいた。
きっと私はいつもそうなのだ。
私には生まれてこの方、取り立てて嫌な思い出がない。
嫌な目に遭ったり、痛い思いをしたり、それこそ命が危ぶまれたこともあったくせに、普段はその多くをすっかり忘れているし、たとえば何かの拍子に思い出すことになっても、各エピソードの最後には決まって「よかった」という感想で締めるようになっている。
それはきっと彼らのおかげだ。
私の周りにいる、やさしくて器のでっかい人たち。
新幹線の清掃ばりに仕事の速い人たち。
彼らがチームとなって、私の身に起きた“禍”をささっと“福”に転換してくれているのだ。
凹んでいる私をよそに、「はい、変えといたよ」ってなもんなのだ。
“禍”は私が記憶しようにも、すでに消え去っていて、そこにはない。
で、「はい、代わりにこれ」と“福”を渡される。
あまりの急展開に私はついていけないのだけど、「いいから、行きな」ってな感じで、気づけば、私はもう次のステージに載せられている。
いや、だから私は反省しているようでいて、実のところはそうでもないんだろうし、失敗はなくならないし、とんでもないこともやらかすし、いつまでも救いようがないままなんだけどさ。
世の中は本当に不公平で、私はズルばっかりで、それはもう、申し訳ないほどなんだけどさ。
これは、この上なくありがたいことだと思う。
「生かされている」というのはこういうことかもしれないと思う。
四方八方、どこにも足を向けて寝られない。