「実践報告」

ある日本の高校の英語の先生による「実践報告」を聞く機会があった。

報告者である現場の先生自身が独自に作ったある高校3年生向けの課題の概要と、学期末の発表の一部をビデオで見せてくれた。
生徒たちは楽しそうだったし、いわゆる紙の試験では測れない種類の能力に長けた生徒が、伝統的な評価の外で別の顔を見せるというのは大事な視点だし、日本の一般的な高校で行われている英語の授業に馴染みがない私のような者にとっては、ナマの教室風景を目にする貴重な機会になった。
「実践報告」としてはじゅうぶんだったと思う。

「実践報告」の正式な定義はよくわからないが(参照1 参照2)、「授業の副産物としてたまたまとれたものですが、皆さんの中で興味を持つ人がいるかもしれないのでシェアします」というようなことなのではないかと思う。
実際に教えている先生本人が、自分の生徒たちの様子を記録し、部外者である私たちにありのまま伝えてくれるだけで、資料としては貴重だし、意義もじゅうぶんあると思う。

アメリカで出会う私周辺の“現場の先生”は、ニューヨーク州や近隣州で教員をやりながらPhDを取りに来ているような人たちなので、“現場の先生”兼・研究者な人になってしまうが、いくら勘違いだらけの私でも、彼らが少数派であることは知っている。
まして日本の話なので、“現場の先生”と研究者はアメリカよりくっきりと区別されているのも知っている。
日本の“現場の先生”は大学院に行くことも多くないから、研究経験がまったくなくても不思議ではない。

だから「実践報告」は研究発表でなくていい。
研究発表とは別のもので、別の価値があるのだから。
そこに優劣はないし、比べる意味もない。
似せたり寄せたりする必要もない。
「こんなのやりました。よかったらどうぞ」というくらいの軽いムードでいいと思う。
でも、少なくとも今回のはそうではなかった。
「実践報告」と銘打たれてはいたが、遠目から見たときの雰囲気やプレゼンテーションの構成としては研究発表風に仕上げてあった。
ひょっとしたらあれがこの業界の作法なのかもしれないが、なにしろ初めてのことなのでわからない。
不必要に形式ばっていて、不必要に堅苦しかった。

内容が伴わないのに、型だけを立派に整えすぎてしまったために、かえって安っぽくなって価値が下がるってこと、あるよね。
さらに、余計なツッコミどころを招いてしまうってことも、あるよね。
もったいない。

特に前半はパロディみたいになっちゃってた。
出所がはっきりしないアンケート結果とか、ざっくりした数字で作った円グラフとか、Rationale(研究の根拠)風の感傷的な何かとか、Literature Review(先行研究などの文献紹介)風の報告内容と関係が薄い読書記録的な何かとか、要らなかったよなぁ。
せっかく「実践報告」+「本人」を引っさげてきたんだから、素材で勝負、でよかったのに。
研究者を挑発するのが目的ならいいけど、そうでもなさそうだったし。

“現場の先生”なんだからさ。
むしろ「自分は研究者じゃない」ということをウリにしたらいいのに。
オーディエンスの中に研究者がいるなら「私のところではこんなデータが提供できますよ」とアピールして、「よかったらうちで研究しませんか」と研究者をスカウトするとかさ。
「この生徒たちをこうしたいと思うんですけど、やり方がわかりません。お知恵を貸してもらえませんか?」とかさ。

あるいはもっと無邪気な、「うちの生徒たち、がんばってるでしょう?ぜひ見てやってください」という生徒自慢でもいいと思う。
その手の報告は、たとえ“現場”と兼業でも、研究者になっちゃったら絶対できないことだからさ。
で、オーディエンスに褒めてもらって、教室へ帰ったら生徒たちに「みんなのこと、他の先生方も褒めてたよ」でいいじゃない。

“現場の先生”はまず“現場の先生”であることにプライドを持った方がカッコいいと思うよ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。