Disclaimer

誤解や理想や、イメージや、そのあたりに渦巻く感情的な何かについて。

世の中に不思議なことはいろいろあるけど、私が教育をやっているというのは、かなり不思議なことである。

私は幼稚園以来ずっと日本の教育に馴染んでいなかった。
いま考えると、私のような子を日本の教育にはめこむというのは、関わる人すべてに不幸を招く恐れがあったと思う。
知らなかったとはいえ、危ないところだった。

勉強は大嫌いだったし、できることなら学校には行きたくなかった。
学校に行く意味がわからなかった。
先生を好きになったり憧れたりしたことは一度もない。
たぶん、「この先生とは考え方が合わないな」ということが子どもの頃からわかっていたのだろう。
教育を学ぶようになって、自己紹介などの一部に「恩師について」みたいなコーナーが何のためらいもなく含まれている場に出くわすようになったが、披露するエピソードがないし、そのテーマ自体に引く。

たまたま両親に理解があり、友達にも恵まれていたので、ごまかしながら、どうにか逃げ切ったが、それがなかったら私の学歴は高校中退だったと思う。
実際、高校生の頃の私の態度は「いつでもやめたらぁ」的だった。
そのことを、大人になった私が悔いたり恥ずかしく思ったりしてればまだ救いもあるのだろうけど、あいにく私はそんな自分を肯定的に捉えている。
殊更に誇るようなものではないし、関係者で迷惑した人には「ごめんなさいね」と思うけど、基本的には「おもろいヤツだったな」ぐらいの感じ。

そんな私が後々、自ら学業に戻ることになり、まして学業に携わる人たちに自ら近づいていくことになるなんて、誰が想像できただろうか。
私自身はいま現在も、進行形で不思議に思っている。
キツネにつままれているのかもしれないけど、それにしてはやけに長いことつままれてるねと思っている。

そんなわけで、私バージョンの真実は「教育や学問とおよそ縁のなかった人が、何の因果かうっかり巻き込まれて場違いなところに滞在している」というもの。
だから、私が教育に向いていなくてもちっとも驚かないし、いずれ追放されることになってもおかしくないと思っている。
つまみ出されるときが来たら、きっと私は「だよなぁ。だと思ったんだよ。てか、もっと早く言ってくれてもよかったのに」と言う。

ところが世の中には別バージョンの真実を見ている人がいる。
優等生で優秀で、愛にあふれ、情熱的で、夢をかかげ、目を輝かせて教育に命をかけている私をどこかで見たらしい。

ま、見たんなら、しょうがないよね。
誤解は自由。(参照

どこかで見かけられた私は、来る者を拒まず、来る気のない者に働きかけて来るように誘い、去ろうとする者を引き留め、去る者を追い、去った者を連れ戻す人らしい。
どんな相手に対しても、決してあきらめず、いつでもいつまでも見守り、待ち続け、抱きしめる、情の深いタイプらしい。

教育熱心なので、常にあらゆる学びを誰にでも推奨し、教育が万物を救い、世界に平和をもたらすという理想に燃えているらしい。
時には自身の高学歴を振りかざし、「私のようになりなさい」と説いたりもするらしい。
正義や偽善も見え隠れするらしい。

ところが、私バージョンの私はそれよりずっと低温で、おそらく“平均”より冷たいぐらいでもあるので、来る者は慎重に選択したうえでしっかり拒むし、去る者は一切追わない。
来る気のない者は来ないでほしいし、間違って来ちゃったなら早めに帰ってほしい。
まったく心の狭い人間なのである。

私は自分の知っていることや知っていると思っていること、自分の解釈や考え方に、いつも疑いがある。
自分に限界や弱点があるのは承知で、そのことを隠していない。
もちろん教育そのものについても、完全には信用していない。
学ばなくていいことはたくさんあるし、学ばないほうがよいこともあるし、知を絶対的に良いものと考えることは危険だとも思っている。
学ばない人、成長しようとしない人、深く考えることが苦手な人、極端に傷つきやすくて動けない人がいるのも、いちおうわかっているつもりではいる。
正しさに興味はないし、善に対して偽るほどの憧れもない(参照)。
私はどういうわけかズバ抜けて運が良いのでたまたま無事だが、このやり方は一般向けではないので、良い子はマネしないでね、と思う。

しかし、そのあたりは全部まとめてどうでもいい。
どうやら世の中のほとんどのことは、どんな賢い人にもわからないようだし、わからないとしても考えることは無駄じゃないようなので、今のところはなんとなく考える方向で乗っかってみているが、私ごときが考えたところで、何も変わりはしないだろう。
そうこうするうちに、どうせ私の短い人生は終わるのだろうし、もしその間に、たまにでも、少しでも、偶然にも、誰かや何かのお役に立てたら十分じゃないの、と思っている。
もちろんその間に、ひょっとしたら人を傷つけたり、過ちを犯すこともあるのかもしれないが、それはそれで、しょうがない。

でもこれは思い違いかもしれないし、間違っているかもしれない。
明日はその間違いに気づいて「やーめた」となるかもしれない。
ま、そうなったらそうなったでいい。

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