「言葉が足りない」

言葉が足りるなんてこと、あるかしらね。
ないんじゃないかしらね。

相対的に、たとえばAさんよりBさんの方が、とか、1回目より2回目の方が、とかはある。
素人よりは物書きの方が、下書きよりは校正を経た原稿の方が、言葉は足りているだろう。
しかし、物書きの手による出版に至った文章でさえ、本人が「言葉が足りた」と感じるようなことはないのではないかと思う。
シェイクスピアさんあたりだと、多少「言葉が足りている」と思うこともあったかしら。
どうかしら。

コドモの中には、「言葉が足りている」と感じやすいタイプの人がいるかもしれない。
ここでいうコドモとは、考えや思いが単純で、表現にこだわりがなく、自分の言葉による影響に無頓着な人のこと。
年齢は関係ない。
発信したいことの容量が小さければ、少ない言葉でまかなえる可能性が高まり、そのことに本人が満足していれば、結果的に「言葉が足りる」に当たるものが成り立ち得るということである。
単純でこだわりがないから表現しやすいということであって、言葉がじゅうぶんに豊かだということではない。
「言葉が足りている」のではなく、「言葉が足りないという経験をせずに済む」。
幼児に外国語を教えると、比較的簡単に「言葉が足りた」ような現象を起こしやすいのはこのためだ。
大人の目には奇跡のように見えることがあるが、それは見る人の感情が絡んでいるからそう見えるのであって、カラクリそのものは複雑ではない。

特に自分の外国語学習に成功せず、「自分の言葉が足りない」という思いが強い人は、我が子の言語学習に躍起になることがある。
たとえば、「言葉が足りる」ということがそもそも幻想で、達成はほぼ不可能だということ、そして中身が薄ければ一時的に足りたように見せかけるのは容易く、いつまでもその状態でいるのは不自然で無意味だということを知ったら、「言葉が足りる」を求めて頑張ることに冷め、あれほど子どもの外国語学習に熱を入れることはなくなるかもしれないと思うけど。
どうかしら。

本人が「自分の言葉が足りている」と思い込むことは自由だし、ひょっとしたら幸せなことでもあるし、別に構わないが、それはほとんどの場合、自らの未熟さに無自覚なほど未熟な者が、自分の経験や感覚だけを根拠に言い放っているのであって、そのことと「言葉が足りている」というのは別だろうと思う。
たとえば英語を習いかけたコドモが、すぐに「英語をマスターした!」と思い込むことはあるが、それは客観的に見れば「マスター」とは程遠い。
逆に周囲が「マスター」していると認めるほど上達した人は「マスターだなんてとんでもない」と思っているものだ。
Dunning–Kruger effect(参照)ですかね。

そう考えると、「言葉が足りる」か否かの決定権は、本人以外の他者にあるのかもしれない。
本人が「足りてる」と言おうと「足りてない」と言おうと、その自己申告にはほとんど意味がない。
それよりは、他者による査定のほうに信憑性がありそうだ。

さらに、たとえ「言葉が足りる」と査定されたとしても、それは「言葉の量が中身より多い」ということでしかない。
そう考えると、「言葉が足りない」という査定は「言葉の量より中身の方が多い」ということであり、「キミは言葉が足りない」という査定には、どこかに中身に対する高い評価と、それに見合うような表現ができるよう成長してほしいという期待があるように思えてくる。

だから自ら「言葉が足りない」と主張されるのには違和感があるんだよなぁ。
言葉なんて足りなくて当たり前。
みんなそうなんだから、取り立てて発表しなくていいよ、と思ってしまう。
そして、「本当はもっと中身があるんです。言葉さえ足りれば、あなたにもわかるはずです」と言われている気がしちゃう。
その態度は、言葉や言葉を使うという行為に対して不遜じゃないかしら。
どうかしら。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です