「ない」

何はさておき、まず「ない」と言う癖がついている人について。

自分が知らないこと、見聞きしたことがないものについて、まず最初に「ない」と言い切る人がいる。
調べもせず思い込みで「ない」と言う場合もあるし、調べたけど見つからなかったから「ない」と言う場合もある。

たとえば何かほしいものがあってお店へ行って見当たらなかったら、「ない」。
店員に聞くでもなく、「ない」。
そして「この店/街/国にはないんだ」とか、「もう売ってない/作ってない」とか、根拠のないことを自由に展開させて、納得する。
さらには他の人にも「ないよ」と吹聴する。
「いや、あるよ。あの棚のここんとこ、見てごらんよ」と言うと、「わ。本当だ」となる。
「全然気づかなかった」「見えてなかった」となる。
それでもまだ「さっきまでは確かになかった」と頑張る場合もある。

たとえばある情報を探していて、グーグルかなんかで検索して、ヒットしなかったら、「ない」。
で、さっさとブラウザを閉じる。
検索ワードを変えたり、情報に誤りがある可能性を考えたりして「あるよ」と出して見せると、まるで魔法扱い。
いやいやいや。

人それぞれ、見ているところは違うものだし、社交性やリテラシーやスキルにも違いがあるので、見つからないこと自体は仕方ないし、構わない。
問題は彼らがなぜ真っ先に、頭ごなしに、決め付けて、きっぱり「ない」と言い放つのか。
なぜ彼らはあんなにも自信満々で大胆不敵なのか。

ふむ。
ヨソサマのことはわからないので、自分のことを探ってみよう。
私は彼らの対極で、何はさておき、まず「ある」と考えるタイプ。

求めているものが私の目に入ってこない場合、私は「自分の探し方が悪いのだ」とまず思う。
「ある」のに、自分にだけ見えていないのだと考える。
自分の視野に自信がないのだ。
それで、店員など自分よりよく知っていそうな人を捕まえて、「どこにありますか?」と尋ねる。
「ある」んだから、目の付け所を変えさえすれば見えてくるだろうという仮説を立てているわけだ。

店員が知らなかったり、店員でも見つけられなかったら、たとえば店長に尋ねるなど相手を変えて、“場所さえ特定できれば見えるに違いない仮説”を押す場合もあるが、その頃には、もう私は次の段階へ進んでいて、「私の伝え方が悪いんじゃないか」と思っている。
自分のコミュニケーション能力や言語的知識、言語の運用スキルに自信がないのだ。
私の発音が悪いのか、説明が悪いのか、スペルを変えたり表記を変えたりして、検索ワードを工夫する。
ついでに私は自分の記憶にも自信がないので、覚えているつもりの名前や情報を疑う。
「ある」のだし、知ってる人は知ってるんだから、私が適切に助けを求められさえすればたどりつけるだろうという仮説を立てているわけだ。

そうやって、手を変え品を変え、店員を変え店を変え、検索ワードを変え、検索方法を変え、周辺情報を集めると、私が「ある」と思ったものは、たいてい「ある」。
「ある」以外の結果については、「過去にはあったけど今はない」や「あるけど手に入らない」が多く、それらを差し引くと、本当の「ない」つまり「存在しない」なんてことには滅多にならない。
私にとって「ない」はそのくらいレアなのだ。

そう考えると「ある」は長期戦、複雑、しつこく、きっちり、不安、手間がかかる。
「ない」は一瞬、ラク、さっぱり、テキトー、安心、手っ取り早い。
「ある」より「ない」方が、少なくとも一般的にはメリットが多そうだ。

そっかぁ。
だから人数的に多数で、多数だから強気なんだな。
メリットが多いから、“賢い”人ほど「ない」を選択するんだな。
そして「ない」と言い放って、肩で風を切って去っていくんだな。

それに引き換え、「ある」で始まる私のようなタイプは「あるはずなのに、おかしいな」と不安になったり自分を責めたり、いろんな人のお世話になったり、余計な手間や時間をかけたりして、いつまでもグチャグチャこだわって深みにはまってるわけだな。
とほほ。

さて。
一般的には勝ち目がないのを承知したうえで、自己弁護もバイアスも自覚したうえで、あえて「ある」の良いところを並べてみよう。
たとえばKanguro の洗濯カゴにまつわる素敵な出来事は「ある」と思わなければ始まらなかったよね。(参照

事業やプロジェクトを起こす場合には「ある」が不可欠なんじゃないかな。
また、学習や研究に携わるような人も「ある」体質の方が向いていると思う。

私はこれまで、自分がほしいと思った情報はほぼもれなく手に入れてきている。
自分が思いついたり、疑問に思うようなことにはきっと先達がいるだろうと思っているからだ。
「ある」に違いないと思って探すから、先行研究も関連情報も見つかるし、必要な情報にたどりつくために助けてくれる人も現れる。
そうしているうちに興味が近い人とのネットワークができてくる。
集めた情報をつなぐ、自分の知のネットワークもできてくる。
「ない」と決め付けて探すのをやめていたら、それは生まれてこない。

そうやって「ある」ものを集めに集めていった先に、どうやら「ない」のかもしれない、というものが見つかる。
それが自分の仕事になる。
「ない」ならそれを作って「ある」に変える。
そしたら、いつかどこかで誰かが「あるかな」と思って探したときに役に立つことがあるかもしれない。
それが貢献というものなのだと思う。

「ない」と言い放ったら学びはそこで終わる。
「ない」で満足したら作ることをしなくなる。
それは、少なくとも私にとっては何よりも恐ろしいことだ。

「ない」の人たちだって、どこかの時点までは「ある」だったんじゃないのかな。
何かから逃げたり、自分の何かを守るために、不本意ながら「ない」に転向せざるを得なかったのかもしれないな。

面倒でも無駄でも自信がなくても臆病でも、損でも、非効率でも、私は「ある」を続けていきたいと思う。
そして「ある」のデメリットや肩身の狭さを知る仲間として、同じように「ある」を元手に動き、他の人と関わりながら、知識を広げ、考えを深め、学習を続ける人たちを応援したいと思う。

そういう学習者はどこかに存在していて、私はいずれ彼らに出会うことが「ある」と決め付けているのだ。
「ない」の人が「ある」に変わる可能性も…うーん、高くはないだろうけど、ま、「ある」、かな。

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