続・CliffsNotes

CliffsNotes について、もうちょっとだけ。
(と思ったら意外と発展しちゃった。)

昨日の記事に対して、“取材”の場にいた文学者の一人からご指摘をいただいた。
「自分が教える場合、CliffsNotes の類は一通りチェックしています。剽窃防止のために。」

なるほど。
そりゃそうだよね。
私も、クラスを持つなら、教科書を決めた時点でCliffsNotes に目を通すだろうと思う。
それで学生に使ってほしくないと判断したなら、たぶんシラバスにでも書いておくと思う。
「CliffsNotes を使うのは自由だけど、私が読んだ限り、このコースの目的には合わないので、CliffsNotes に記載の内容を授業に持ち込むのは勧めません」ぐらいのことを明示しておくのがフェアな気がする。

セット販売しなくても、禁止しても、読むヤツは読むしね。
「別にいいけど、使っても役に立たないよ」とちゃんと伝えてあげるのが愛じゃないかなぁ。

で、ところで「剽窃防止」?
剽窃に値するほどの内容が書かれているとは思わなかったので、いちおうそこを確認すると、「剽窃に値しないからより一層困る」とのこと。
なるほど。

まぁ、あくまでも素人解説なんだろうね。
その程度の情報ならWikipedia や個人のブログでいくらでも手に入りそうなのに、あえて紙ベースで、有料で提供してまだ成り立っているあたり、CliffsNotes、やはりタダモノじゃない気がする。

そういう、「いまどき、この程度のことならネット上で事足りるのに」な物事に対して、より不便な方法をあえて選択し、そこにお金を払わされる/払いたがるというのは、少なくとも2015年現在ではよくあることだ。
これを「CliffsNotes 現象」と呼ぶことにしよう。
今後、現状維持思考やマーケティングの力が衰えたり、カネ以外の何かの価値が高くなったり、人々のCriticality が上がったりすると形勢が変わるかしらね。

それはともかく。

いちおう断っておくが、私は文学教育に口を出すつもりは毛頭ない。
私自身、文学に親しみがないし、文学的な分析や論証のことも何も知らない。
個人的に、文学教育と言語教育の間にはかなりの距離があるものだと思っている。
だから、文学教育で何がどうなっていようと、私がそれを知る必要は、直接的にはない。

しかし、日本の英語教育という文脈においては、英文学と英語の教育が混同されていることがあまりにも多い。
文学者に言語学習の指導を任せるという、わりと不思議なことが、わりと普通に行われている。
日本には高度に英語を使える人が多くないわりに英語学習を希望する人が多いので、英語教育側の台所事情として、致し方ない。
さらに、文学教育においては文学を教えたい人が多いわりに学びたい人が少ないらしいので、あちら側の台所事情にも合致している、ということのようだ。

特に大学などでは、文学出身者が文学寄りに英語を教えるということがよくあって、ということは大学入試にも絡んでこないわけでもなくて、ということは高校や中学の英語教育にも影響がないわけではない。
そうなると、知らぬ存ぜぬではマズイかもな、という気がしてくる。
何の因果か日本の英語教育という舟に乗り合わせる者同士、相手を知り、協力せざるを得ないところがあるだろうからね。
“うちのコ”がお世話になる以上、どんなことをされているのか、ちょっとぐらいは知っておきたいじゃないの。

同様の混同は言語教育と言語学教育の間にも起きていて、それもゆくゆくはきちんと区別する必要があるだろうと思うけど、ESL/EFLと言語学の関係は文学との関係よりは近いから、優先順位として、文学との区別が先かなと思う。
そしてその区別を試みるとなると、文学教育の人に言語教育を知ってもらうよりは、言語教育の人が文学教育を覗き見させてもらうほうが
いろんな意味で効率的のような気がするのだ。

相手の手の内を知り、お互いに情報を開示し、正々堂々、フェアに、対等に、ブレずに、オープンに、誰のための教育か議論できるようになるといいんだけどね。
本当はね。

いずれにしても、教える側の都合をもとに議論してしまうと、既得権益とか、就職事情とか、教える側の英語力とか、デリケートなところに入って感情が絡んで話がややこしくなる。
で、“大人の事情”が発動して、全部まとめてフタされちゃいやすい。

それは裏返すと、学習者側の都合をもとに議論すれば、いろんなことが変わる可能性があることを示唆するのだと思う。
学習者側から動かすなんて非現実的のように見えるかもしれないけど、教える側が勇敢になるのを待つよりは、まだ現実的なわけだよ。
日本の“お客様はカミサマ”文化にあやかって、もっと“お目の高い”英語学習者が増えてもよさそうなもんだと思うけど、今のところまだそういう動きは見られない。

がんばれ、ニッポン。

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