棒人間

教育において、現場とそれ以外に携わる人々の間の距離というか、差というか、食い違いのこと。

一般には少数なのかもしれないが、私の周りには日本人でアメリカの大学院で教育を学びながら、教室や学習者と縁のない人が結構いる。

一般には知られていないかもしれないが、教育というのは意外と広範囲をカバーする分野なので、たとえば教育テクノロジーを専攻していればコンピュータ・サイエンスに近かったり、教育政策を専攻していれば政治学に近かったりで、いわゆる教育現場は遠い。
また、教育というのは比較的垣根が低いので、他分野から片足だけ入る、みたいなことがしやすい。
政治の専門家がロビー活動の一環として教育現場を視察する、というようなこともある。
経営やビジネスを専門とする人が教育に立ち寄り、知識を持ち帰って応用する、というようなこともよくある。
心理学や社会学との関係は深いし、近年では神経科学(脳科学)との付き合いも増えてきた。

一般には、「教育関係」イコール「学校の先生」と思われているかもしれないが、教育に携わる人の中で、教育現場にどっぷり絡んでいる人はむしろ少数なのである。
「教育の世界にもホワイトカラー/ブルーカラーの区別がある」と言うのは語弊があるが、伝わりやすいだろうか。

教育という学問が教育現場に限定されていないことは、おそらく良いことなのだろうと思う。
少なくとも現代において教育はどんな場所でも必要だという建前が優勢だしね。
教材やテストを開発したり、教育政策を打ち出したり、教育の予算を組んだりする人たちの多くは教壇に立った経験がまったくなかったり、
昔の経験を更新することなく使いまわしていたりするのだが、それらの重要な仕事を現場の先生が片手間にやることはできないし、現場の仕事も片手間にはできないので、分業として成り立っているのは良いことなんだろうし、仕方がないことでもあるのだろうと思う。

しかし、教育の仕事をする人の多くが教育現場に疎いというのは、もう少し問題視されてもいいんじゃないかと思わないでもない。
ホワイトカラーの語る現場や学習者はやけに理想的だったり、リソースや資金があり得ないほど豊富だったり、教える人の時間やエネルギー、学習者のCapacity が無限だったり、どうも見積もりが非現実的になりやすい気がしないでもない。

ある経済学者が以前こんなことを言っていた。
「もし人類のすべてが、感情を持たないのっぺらぼうの棒人間だったら、経済はセオリーどおりに回り、物事は計画どおりに進み、何もかもが丸く収まって、世界は平和になるのに」。
彼は経済の理想を誇らしげに語っている様子だったが、私はなんて恐ろしい思想なのだろうと思った。
もしこれが経済という学問の理想なら、私はそんな世界に入らなくて本当によかったと思った。

教室や学習者を間近に見る私や仲間たちには、顔や感情のない人間を思い描くことなどできない。
誰もいない教室に生徒の姿を見、声を聞き、教科書を開けば学習者の表情が浮かび、カリキュラムを議論する場には学習者や保護者の懸念が舞い込み、論文や学会発表を見聞きしながら、自分の状況で実践したらどうなるか、考えている。
経済学者の“理想論”を聞いた頃、私の周りにいるのはそういうタイプの人ばかりだったので、教育に携わる人というのは皆そうなんだと思いこんでいた。

それから何年か経ち、
教育の世界のホワイトカラーたちと知り合うようになって、ふと、“棒人間”の話を思い出した。
教育の理想を語る彼らの頭の中には、感情を持たないのっぺらぼうの“棒人間”が、コマとなって動いているのではないかと思うことが時々ある。
だから、ブルーカラーの教育者や学習者に対して、なぜ理論どおりにやらないのか、できないのか、なぜ予定どおりの結果を出さないのか、疑問に思うのかもしれない。

彼らには“勝利の方程式”があるのかもしれない。
ブルーカラーの目には意味不明に見える各種テストや教材や指導要領や予算や教育政策は、その“方程式”に照らし合わせれば辻褄が合うのかもしれない。
だからこそ、ホワイトカラーの人たちは、何かをちょいと変えさえすれば、教育はガラリと良くなって、たとえば日本人全員が英語ペラペラになることも夢ではないと本気で思えるのかもしれない。

携わる人々の軸足の在処や目的や主張が多様であるのは、教育という分野の強みなのだと思う。
教育ほど、誰もが身に覚えがあり、それぞれが自分の経験や境遇を元に気軽に評価でき、ごく身近なものとして持論を自由に語れる分野はそうそうない。
“元学習者”の皆さんが、「こうしたらいいよ!」という提案を常に、積極的、具体的に出してくれる。
おかげで、教育現場は象牙の塔にならずに済んでいる。
自身や我が子や自国民や世界中の人々のために、みんなが教育に期待をし、教育がより良くなることを望んでいる。
それは、素晴らしいことなんだろうと思う。

でも。
ありがたいんだけど。
言いにくいんだけど。

それはいわゆるWell-intended Chaos でもある。
そして、その善意から成る混沌に、振り回され、かき回されるのはやはり現場なのである。
そこはホワイトカラーが矢面に立って鎮めてくれたらいいのに、と思う。

まずはホワイトカラーとブルーカラーの間で、より現実的な“理想”のすり合わせをすることから始めてみたらどうだろうと思う。
ただ、私の知る限り、現実感のない“理想”ほど手放すのは難しいようだ。

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