自動詞・他動詞

日本人の英語における自動詞・他動詞について。

自動詞とは、目的語をとらない動詞。
他動詞とは、目的語をとる動詞。
文法が苦手な人は、もうこの時点でイヤになっちゃうよね。

なるべくイヤになられないように、がんばって説明してみよう。

動詞というのは、「動き」を表す言葉。
パソコン画面を「見る」とか、ブログを「読む」とかね。
で、その動詞はざっくり2種類に分けることができるかも、という話。

「自動詞・他動詞」という用語を、多くの日本人は英語を習って初めて聞いたので、英語に特有なものだと思っている人もいるようだが、「自動詞・他動詞」は日本語にもある。

たとえば「走る」という動作を頭に浮かべたとき、「うん、走るだよね」と自然に思えたら、「走る」は自動詞である可能性が高い。
一方、「持つ」という動作を頭に浮かべたとき、「え、何を?」と思ったら、「持つ」は他動詞である可能性が高い。
この「何を?」に当たるものが目的語で、「持つ」には必要だけど、「走る」には必要じゃない。

動作を表す動詞の中には、両刀遣いのヤツもいる。
有名どころでは「開く」と「開ける」とかね。
「開く」は、たとえばドアが“自ら”開くことで、「開ける」は、たとえばドアを“他”が開けること。
「言われてみれば、確かに」ってなところでしょうか。

…このペースで説明してると連載になっちゃうな。
先を急ごう。

日本人の英語、特に書いたものを見ていて、自動詞と他動詞の区別ができないまま放置している人がとても多いなと思う。
放置しておいても、まぁいわゆる中級ぐらいまでは行くものなので、“有識者”の偉い方たちが目指すところに影響はないのだろうけど、本当の意味で英語が使える日本人を増やそうと考えている人なら放ってはおけない問題だろう。

自動詞と他動詞の区別がつかない理由はいろいろあるが、1つには、学習初期の段階で文法というパズル系の課題がそもそも不得意で、たとえば上に書いたような日本語における動詞の区別もあやふやな学習者に対して、概念を理解させることをすっ飛ばし、いきなり英語の例だけを使って不十分な説明を施して失敗している、ということがあると思う。

また、上述のとおり、区別がついていなくても、中級ぐらいまでは進めてしまうというのも原因だろう。
中級といえば日本ではそこそこの英語の使い手とみなされるレベル。
「そんな区別なんてできなくても、別にペラペラになれるし、海外で生活することも、英語を使って仕事することもできるよ」という考えが正しいと証明してみせる人がゴロゴロいる。

当然、英語を教える人の中にも区別がついていない人がいる。
区別がついていない人が、明示あるいは暗示的に「区別なんてつかなくても大丈夫」という考えを交えながら教えている。
自動詞・他動詞がごっちゃになっていても、各種試験で致命傷を負うことはない。
その環境で学習者が本腰を入れて自動詞・他動詞を学ぼうとはなかなか思わないだろう。

しかし、重要なのは自動詞・他動詞の区別ではない。
議論すべきは、学習者の英語に自動詞・他動詞の区別がないという、その事実から透けて見える、彼らの英語学習環境における問題。
そこを押さえないと、すぐ丸暗記などの安直なテクニックでその場をしのごうという発想につながってしまう。
どうしたらより良い学習環境を提供することができ、結果として、自動詞・他動詞の区別がないと「マズイな」「気持ち悪いな」と学習者が感じられるところへ持っていけるか。
この「結果として」というところが大切だと思う。

日本人の英語に自動詞・他動詞の区別がないと言っても、それはまったくランダムに現れる現象ではなく、ある程度の傾向があるはず。
私がぼんやり思うのは、”*Let’s discuss about it”、”*Do you have?”のように他動詞を自動詞として扱うものが、逆のケースより多いということ。
このあたりは、たとえば「’discuss’より先に習う’talk’との混同」とか、日本語の「持ってる?」からの直訳とか、個々に誤用分析することは簡単だが、それにとどまらず、もっと体系的に調査する必要があると思う。

英語の自動詞を日本語に訳すとき、目的語のない他動詞に変換してしまうのも同じだろう。
“I run.”を「私が経営しています」と訳す、みたいなことね。
日本語ネイティブは日本語の他動詞を目的語抜きで使うことに慣れている。
他動詞に目的語がなくても「え、何を?」とはならず、比較的平然としていられることが多い。
目的語がなくても、別に気持ち悪くない。
だから英語でいちいち「え、何を?」を問われる理由がわからない。

そこにはおそらく、日本人が日本語でコミュニケーションする際の、Context(文脈、前後関係、背景)に対する感覚が関わっていると思う。
「持ってる?」が成り立つ、あの感じ。
個々の文のルールを呑み込み、文法とは別のルールでコミュニケーションを成り立たせてしまう、強烈なContext の感覚。
察しや空気読みを可能にする、あの力。
それは言語の表面をなでているだけでは見えてこないのだ。

今まで文化人類学やコミュニケーション学がやってきたことに、英語教育から資料を加えることは、その謎解きに大きく貢献することになるのではないかと思う。
この感覚を体系的にとらえ、言語化して提示することができれば、そこから芋づる式でいろんなことがわかってくるだろう。

たとえば、日本人のContext 感覚をベースに日本人の“複数”に対する感じ方(参照)を、日本人の英語に現れる単数・複数の例を使って紐解くことができれば、そこから、英語学習における単数・複数の区別や冠詞の使い方といった、日本人学習者が共通して難しいと感じる項目に対し、本質的で、ホントに使える解決策を立てることができそうな気がする。

英語教育はそのために提供できる資料をすでに持っているし、研究が進めば、まっさきに、直接的に恩恵を受ける。
文単位で和文英訳ばかり練習しすぎてヘンな癖がついたり、そこでの“合格点”に満足してガラパゴス化したりして、英語に見えるけど英語じゃない、文章に見えるけど文章じゃない、不思議な文の羅列で乗り切ろうとする学習者を量産するようなことはなくなるだろう。

日本人の英語について研究している人はたくさんいるし、その多くは文法を専門にされていて、中には誤用分析が得意な人もいる。
また、これは話し言葉ではなく書き言葉の範疇でできることなので、日本人の英語研究者のほとんどが扱えるものだろう。
つまり、ここまでは汎用すぎて条件として機能しない。
テーマとして扱える研究者はいくらでもいるはずだと思う。

そこから先、条件として厳しくなるのは何だろうか。
日本人や日本語についての知識か、研究者自身の英語力や言語感覚か、日本人の英語をなんとかしたいという情熱か。
これで篩の目が一挙に細かくなって、ヒット件数が激減するのかな。

とはいえ、私が知らないだけで、どっかですでに着手している研究者はいるんだろうな。
ぜひとも、がんばっていただきたい。

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