これから本格的に言語教育の道へ入っていく、という人に会った。
ある人の紹介で、お会いして話を聞いた。
日本からアメリカへ着いたばかり。
大学でインターンをしながら来秋の大学院入学を目指して準備するという。
新天地、新生活、新しい道。
不安と期待と希望が入り混じった初々しさ。
いいね。
学習者の話をしていて、なんとなくそう思ったので、「Yさんは、よくできる上級の学習者が好みですか?」と尋ねると、「そりゃ誰だってそうでしょう!」と即答された。
Yさんのお母様によると、Yさんは子どもの頃から優秀で、目標を掲げては達成する、というタイプだったので、できない子の気持ちがわからないのかも、とのこと。
ふむ。
ま、先生っていう職業を選ぶ人はそういうタイプが多いようにも聞くから、そういうもんなのかもね。
「emi さんは違うんですか?」と聞かれたので、「ええ、私はできない子ほどかわいくて」と答えると、思ったより大きく驚かれた。
純粋な彼女は、この先いろんなことを吸収して変化していくのだろう。
それで、考えた。
私の原点は、やはりいちばん最初に受け持った子どもたちにある。
平均的な教育レベルの高くない地域で、幼児から中学生までの子どもたちを100人近く預かっていた、あの教室にある。
子どもの様子や保護者との接触を通じて、経済的な格差を垣間見、家庭事情の複雑さを知り、事件や事故や不和や混乱のある中で、子どもたちがたくましく育っていく様子を見せてもらった。
学習者というのは、その個性も能力も、置かれている環境も、彼らにかかる期待もプレッシャーも、その他もろもろも、何もかもが一人ひとり違うのだということを知った。
その後、私は英語教育や日本語教育を通じて、外国や外国人や、いろんな職業や文化的な背景や、より幅の広い年齢層の学習者たちと出会ってきたけど、どこへ行っても、誰と会っても、あの子どもたちとの出会いほどの衝撃はない。
もちろん、初物のインパクトで多少割り増しになっているんだろうけど、別世界へ入り、目を開かされたという意味で、あれほど大きなカルチャーショックを感じたことはない。
たとえばアメリカのESLで、母語の読み書きができない成人学習者が入ってくると多くの大学院生は戸惑うものだが、私は「はいよ」ってなもんだった。
そして私の興味はいつも“できない子”にあるのだなぁと改めて気づく。
“ウチの子”たちの中には人気者も真面目な子もいた。
優秀で、明るくて、大人に好かれる子もいた。
でも、そういう子のことはあんまり覚えていない。
私が真っ先に思い出すのは、障害のある子や、いわゆる不良や不登校の子で、本人も周りも“できない子”だと思い込んでいるような子が「できた」を体験した瞬間ばかり。
もちろんヤツらはそれでゴロッと“できる子”になったりはしないし、体力的にも精神的にもぐったりさせられちゃうんだけど、やっぱり彼らがかわいかったんだと思う。
他の大人や先生がさじを投げてしまったような子が、私は好みなのかもしれない。
「他の大人や先生にかわいがってもらえる子はそっちへ行けばいい」と思っているのかもしれない。
今はキャンペーン中だから封印しているけど、本当に私は救いようのない世話好きなのだ。
あの子たちのおかげで、あるいはあの子たちのせいで、私はどんな学習者に対してもさじを投げられなくなってしまった。
どんな学習者にも必ず良いところがあって、やる気になるツボがあって、伸ばし方を見つければ、必ず伸びる。
それはいわゆる“できる子”ほど簡単には見つからないけど、簡単じゃないからこそ、見つけたときの喜びが大きい。
これは私のエゴでもある。
ドMなところでもある。
「もし私が“できる子”を好んでいたら、日本人の英語をなんとかしようなんて、思わなかったでしょうね」と答えたら、彼女は黙ってしまった。
伝わったのか、伝わらなかったのかはわからない。