続・ワークショップ

心配とか不安とか、敷居のことと、他の人の協力を得る意義について。

例のワークショップの件で、一般募集する際のテキストを用意しつつ、「興味ある」と「参加する」の間にある厚くて高い壁を少しでも薄く低くしようと工夫中。

で、たまたま友人とワークショップの話をしていて、「ちなみに理解度チェックテストとかある?(=あるなら怖いから参加したくない)」と聞かれた。
あるわけないじゃん、と思ったけど、なるほど。
不安って、そういうことか。

なぜか私がやることは厳しそうだったり怖そうだったり、敷居が高そうだったりというイメージが先行しやすい。
スパルタ顔なのかしら。

いや、本当にスパルタならそのように伝えればいいんだけどさ。
煽ったり、脅したりする気はないし、大勢に注目されたりするのが目的じゃないので、甘い言葉で誘っておいて、実は…みたいなことは絶対に避けたい。
でも、実際には存在しないことで不安をかきたて、むやみに警戒されるのは残念だよね。

それをきっかけに、石橋を叩いて叩いてなお叩くタイプの人が、たとえばこのワークショップの情報を見たときに、どこをどう不安に思うのか聞いてみた。

「ワークショップって、すごく発言を求められそう」「積極的な人が多そう」「他の参加者の英語レベルが気になる」「レベルが違ってもついていけるかどうか心配」「教材となるビデオはどんな内容なのか事前に知っておきたい」
おぉぉ。
思いもよらなかったものばかり。

それで気づいた。
私はそのあたりの不安が全然わかってない。
どこか、「やってみればわかるよ」「興味があるならとりあえずやってみりゃいいじゃん」と簡単に考えてしまっているのだろう。
アメリカかぶれかしら。

ビデオの内容については「受講生の興味をうかがって、それに合う内容のものを使います」にしようと思っていたのだが、「興味とか好みを聞かれるのはプレッシャー」と。
くぅぅー、そう来るか。
逆に、「テーマはこれです」と出しておいて、「興味がある人、集まれ」だったら、集まる人の想像もなんとなくつくし、気楽だと。
んー、そうかー、そうなのか。
良かれと思って受講生中心の自由な雰囲気をつくろうと思っていたのに、それはむしろ裏目だったのか。
目からウロコがぼろぼろ落ちる。

あとは、期待と予告。
なにしろ前例がないことをやるわけなので、募集時のキーワードから参加者が適当に想像して「あぁ、あれね」って感じで参加すると、期待を裏切ることになるかもしれない。
その懸念から「想像してるのとはたぶん違いますよ」というのをしっかり予告しようと思っていたのだが、どうやらこれは不要らしい。
「『思ってたのと違う!』がうれしいときもあるし、ガッカリだとしても、それもアリ」。
うーむ。そこはいいのか。

それで気づいた。
私はいちおう参加者の不安に寄り添おうと思っているし、できるだけ取り除こうともしているのだけど、いかんせん、どこに不安を抱くかわかっていないので、みんなが知りたいことは省き、別に気にしないところを丁寧に強調してる、みたいなズレというか食い違いが起きているのだな。

似たようなズレは語感にも。
堅苦しくならないように、ソフトに気軽にと思ってカタカナ表現を使ってみたのだけど、意外なことに“イノベーション臭”が強くなってしまうらしい。
あぁぁ、そんなつもりじゃ。
“画期的感”が出過ぎると、どうしてもグイグイ気味に見えるし、なにより、私が考えていることから離れていってしまう。

そして具体的にテキストをつくり、修正する中で「それ、いいじゃないですか!」ってなことが起きた。
「その一言で、ぐっと敷居が下がった」と。
私としては「えぇ、こんなことで?」。
でも言われてみれば確かに。
私にとっては前提すぎて、当たり前すぎて、言い忘れてた。
出してみれば、必要に決まってる情報なのに。
最初っから言えばいいのに、なんで言わないんだろう、私。
そういうとこあるよね。

そんなこんなで、思いがけず非常に有意義なブレインストーミングができた。
私にない要素を持ち、ちゃんと助言してくれる友人に感謝。
降り積もったウロコをちりとりに集めながら、ありがたさを噛みしめた。

(追記)
その夜、こんな記事に出会った(参照)。
既知と未知かぁ。なるほど。

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