『からゆきさん』

『「からゆきさん」海外〈出稼ぎ〉女性の近代』を読んだ。

近代史とかジェンダーとかって苦手なんだよね。
興味ないし、難しそうだし。
でも、まぁたまたま舞い込んできたので、これも何かの縁と思って読み始めた。

いやぁ。
おもしろかった。
やっぱり食わず嫌いはよくないね。

私の読書量が少なく、読む力が弱いのを差し引いても、なかなか読みにくい本だった。
難しい漢字が多いのに、ふりがなはほとんどないし、ところどころ読み返さないと迷子になる。
普段読むのは自分の専門で土台がわかっているものが多く、専門外ならやわらかいものばっかりなので、久々の専門外でカタい読み物と格闘して、衰えた“読書筋”がだるーんってなりそうだった。

それでも、著者のこの読者に阿らない潔さ、安っぽく迎合しない真摯な姿勢に、私は好感を持った。
こういう書き方だからこそ信頼できる気がした。
筋肉痛になってもいいから読み進めたいと思った。
カタいからこそ、読後の満足感は大きかった。

私が特におもしろいと思ったのは第5章の「愛国婦人会」と「婦女新聞」との対立。
対立と一致は往々にして紙一重なもので、近いからこそ違いが強調され、溝が深まる。
当事者たちはつぶしあっているつもりでも、一つ上層のレベルでは両者が協調しているも同然、というのはまぁよくある構図なのだろうと思う。
そして、よくあるのに、あるいはよくあるからこそ、見えにくい。

個人の思想も社会の思想も、感情も、一朝一夕でできあがるものではない。
それぞれの背後には歴史があり、裏側にはそれぞれに筋の通った理論がある。
そこに絶妙なタイミングで偶然が起き、それぞれの利害が絡み、都合の良い解釈が入ってきて、すべてをかき混ぜた上澄みだけをすくって、もっともらしい根拠と巧い語り口に載せてバラまくと、なぜか大衆が納得する。
そういう不思議な現象を、淡々と解説してもらった気分。

“本当のこと”がどこかにあるとしたら、それはとても複雑で、“真実”は常に複数存在し、一部は相反し、一部は重なり合う。
そんな難解なことを掘り起こすという作業を、この本はなるべく誠実に行おうとしている。

「出稼ぎ」には両義性があり(pp.19-20)、「自由意志」は建前に過ぎず(p.30)、「主体性」を問うことは難しく(p.51)、「からゆきさん」と「慰安婦」の関係は単純ではない(p.177)。
だから著者は「実際のところは不明」(p.68)であるとか、ある主張を持った人の目には「(ようにみえる)」(pp.106-7)とか、とにかく「複雑なんだよ」ということを丹念に繰り返す。
すぐに答えをほしがる気の短い人なら「どっちだよ」「意味わかんない」と言い出しそうだ。

単純でわかりやすいものは伝わりやすい。
白黒がはっきりして明快なものは受け入れられやすい。
際立った感情論など、ドラマチックなものほどウケる。
しかし、単純なものには欠陥や嘘が紛れ込みやすく、広く知れ渡れば誤解や曲解がついてまわる。

そもそも複雑でわかりにくいものを、なるべく理性的に、丁寧に、誠実に伝えようとすれば、複雑でわかりにくくなるのは当たり前。
単純と複雑の間をとるのか、あるいは第3の方法を編み出すのか、何かしらの工夫や試みを続けていく必要はあるのだろうけど、著者はあえて「輻輳性」を忠実に再現し、「ゆるやかさ」を意識して書くことを選んだのだろう。
世の中は単純化された劇的なストーリーばかりだから、たまにはこういう本を頑張って読んで、ちょっと賢くなった気になるのも大事。

「むしろ私たちが考えるべきは、なぜ森崎の意図が看過され、山崎の『サンダカン』は社会に広く受容されたのか、だろう」(p.180)と著者は言う。
ところがそういう繊細な問いかけを無視して、単純でお気楽な書評が世に出回っちゃったりする(参照)。
言わんこっちゃないというか、よくできてるというか、なんというか、因果なものね。

嶽本 新奈. (2015). 「からゆきさん」海外〈出稼ぎ〉女性の近代. 共栄書房.

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