大学の英語

日本の大学の英語のクラスって、そもそも何のためにあるんだっけ?

アメリカの大学院に留学している日本人の中には、将来、日本へ帰国して、主に自分の所属していた大学へ戻り、英語を教える人がいる。
留学前または留学中にそういう約束ができている場合もあるし、留学が終わって、なんだかんだあって、結果として母校や他の大学などで英語を教えることになるという場合もある。

彼らのアメリカでの専攻は文学、歴史、演劇など、いわゆる“がっつり文系”が多いが、たまに経済やビジネスなどの“どっちかと言うと文系”もいる。
彼らにとって、日本の大学生を相手に英語を教えることは専門でもなければ本意でもないという場合が多い。

そういう人たちの中に、私のやっていることを見聞きして、「日本人向け英語なんて誰にでも教えられるのに、何故わざわざそれを研究対象に?」と、まぁ要するに“費用対効果”的な観点から不審がる人がいる。
「英語は道具に過ぎないんだから、アメリカの大学院で学ぶべきものは他にあるでしょう」というわけだ。

一方、似たように見えて大きく異なる反応に、以下のようなものがある。
「いやぁ、本当は自分みたいな門外漢が英語を教えちゃダメなんですよね」「やっぱり専門家は違う」「日本に帰れば英語ぐらい教えられると思ってたけど、甘かった」「自分たちみたいなのが教える立場になれちゃうから日本の英語教育はよくならない」

過小評価や過大評価や、その他もろもろが交錯してるなぁと思う。

彼らの多くは、比較的はっきりと「大学生相手に英語なんて教えたくないけど、しょうがない」と言う。
いわゆる“理系”と違い、自分の専門では、日本での就職先はほぼ大学ぐらいしかないし、専門分野のクラスはベテランの教授陣が占めていて新人が教える隙はないし、とりあえず英語でも教えて、大学との接点を保ちつつ、いずれ専門で空きポストが出たらそっちへ移る。
本当は自分の好きな研究がしたいから、英語を教えるなんて時間の無駄はしたくないのだけど、他に選択の余地はない。
母校や恩師との関係性も大事だし、どこの大学でも、若手研究者はそういう“雑用”から研究の道に入るものだから変えようがない。
いずれ希望のポストに就くまでのつなぎとして、ひとまずの食い扶持を確保するために、しかたなく英語を教えることを呑む、というのだ。

とても無粋だけど、いちおうDisclaimer をはさんでおくと、皆がみんな、そうじゃないっすよ。
英語教育に熱心な人もいる。
それに、入口ではそんな感じでも、フタを開けてみたら英語教育にハマっちゃった、という人もいる。

でもまぁ、そうじゃない人もいるってわけで。

私は彼らを非難するつもりは毛頭ない。
長い時間をかけて、留学という特殊な高等教育を受けて、研究者の卵までこぎつけて、無職ってわけにはいかないでしょう。
アメリカの大学院で学位を取るって、大変なことなんだから。
どんなかたちであれ、彼らのために受け皿があるのは、日本人留学生仲間として喜ぶべきことだと思う。

それに、何と言っても彼らは英語ができる。
教えるスキルや熱意があっても、教える人の英語がイマイチでは残念なことになりやすい。
アメリカで何年も暮らし、大学院レベルの授業を受け、研究ができるだけの英語力を持った人は、日本の中ではまだまだとても貴重な人材なので、その人たちが、たとえ不本意でも期間限定でも、英語教育に携わってくれるというのはありがたいことだと思う。

ただ、だよね。
学生の身になって考えると、どうなんだろうね。
大学っていうものの意味を考えると、どうなんだろうね。

私自身、日本の大学にお邪魔して英語の授業を見せてもらい、リアクションに困った経験が何度もある。
何がしたいのか、わからないのだ。
たとえばある有名私立大学の英語教員養成のクラスでは、学生の着席している机にモニターが埋め込まれており、そこに映し出された、英語教授法の本の日本語訳を、講師である日本人教授が同時通訳的に英語に訳して聞かせていた。
学生の中には当然、居眠りしている人もいた。
教授は「これからの教員は、英語で授業ができないと困るので、自分のクラスはすべて英語でやっている」とおっしゃっていた。
“オールイングリッシュ”ね。
教科書が日本語なのは、「そこまで英語にすると学生がついてこられない」とのことだった。

別の大学では、メディアを駆使したコミュニカティブな授業を見学した。
学生は3人一組になり、2人が英語でインタビューを行うところを1人がビデオカメラで撮影する、というもの。
学生たちは和気藹々、とても楽しそうにやっていたが、肝心のインタビューの中身は日本語交じりだったり、お互いによくわからないけどなんとなくOKというような内容だった。
教授はその授業の間、教室の前に座ったきり。
自分のパソコンを使って、たまっているメールに返信したり、研究データを見たり、論文を読んだり。
教授は「こういう授業を“発明”して、学生がそのパターンに慣れれば、授業中に自分の時間が取れる」とおっしゃっていた。

また別の国立大学では、実用的な英会話の授業を見学した。
ロールプレイに使うフレーズをいくつか練習した後、50人ぐらいの学生が狭い教室で、とっかえひっかえペアを作ってわらわらする中、教授はハイテンション+大きな声で「とぅっで~ぇい、あいうどぅらいくとぅーとーかばーう」という呪文を繰り返しながら歩き回り、学生たちがそのフレーズで会話を切り出すことを促していた。

日本の大学に、英語教育というものが必要なのかどうか知らない。
小学校から英語を始めて、手を変え品を変え、いろんなことを施して、きっと高校卒業までに英語を“マスター”できちゃって、あんなに高度で難しい英語の入試を突破してるわけだから、大学で英語を教える必要はないと思われているのかもしれない。

じゃ、やめれば?
その分の時間もお金も、他に使いましょうよ。
そしたら教える側は、望みもしない英語のクラスを受け持たされることはなくなるし、準備や授業そのものに奪われる時間やエネルギーが浮くし、学生の側も、単位や必修という足枷のために出席しても意味のない授業に出席せずに済むじゃん。

大学という“グローバル”な“教育機関”が、このご時勢に英語のクラスをやめることができるのか、教える側が“大人の事情”を捨てて、現状を打破できるのか、学生側が自分たちの学びのために立ち上がることができるのか、そのへんのことはわからないけどね。

そして、やるならちゃんとやれば?
たとえ一般教養レベルのクラスでも、せっかく優秀な人たちが、忙しい生活のうちの数時間を使って集まってるんだから、有意義に使わないと、もったいないじゃん。

もう一度、無粋なDisclaimer を加えておくと、これは私のバイアスだらけで非科学的でざっくりした観察に基づく個人的な感想のうち、ボヤキ部分を抽出したものだからね。
ちゃんとやってるクラスがあるのも、しっかりした学生がいるのも存じております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です