「何回おんなじこと言わすねん」と思うこと。
私は意味のわからないことが嫌いである。
意味のないことも嫌いである。
そもそも「意味が存在しない」などということはあり得ないと思っている。
「意味は必ずどこかにあるものだ」と決めつけている。
だから、一見して意味がわからないものについては、踏み込んだりよく観察したりして、その意味を知ろうとする。
経験者に尋ねることもある。
うまく説明してもらえない場合は、よりよい説明を引き出すために、言葉を補ったり、質問の角度を変えたりして助け舟を出しつつ、なんとか意味を理解しようとする。
すべては、どこかにあるはずの意味にたどり着くため。
本来の意味がよくわからない場合には、たとえそれとは違っていても自分なりの意味を見出して、「カッコ仮」の意味でとりあえずよしとすることがある。
そのくらいの妥協ならできる。
ただ、それ以上となると話は別。
世の中には「特に意味はないよ」とサラッと言ってのける人がいる。
「意味なんて考えたこともなかった」「意味はないけど別にいいじゃん」と言う人もいる。
結構、いる。
「意味がない」ということがあり得るかどうかはまだわからないが、少なくとも「意味がなくても構わない」という人はかなりいて、「常に意味を求める」人はひょっとしたら少数派で、幸か不幸か私はその“特殊”な要素を持ってしまっているので、時には“意味を求めるスイッチ”をオフにしないと、周りにとっても、私自身にとっても、なんというか苦しいことが起きやすくなる。
たとえば私の目には「そこにあるはずの意味が私に伝わってこない」と見えていて、だから伝わりやすくするために、私としては“助け舟”を出しているつもりでも、他の人には、そのまったく同じ場面が、「ありもしないものをしつこく求めている」と見えるのかもしれない。
私の“助け舟”が相手の目には“詰問”に映り、「ないって言ってんじゃん。勘弁してくれよ」となって、お互いに後味の悪い思いをすることになる。
それはさまざまな経験を通じて、痛い目にも遭って、よーく、よーく知っていることである。
人に聞いたり、何かで読んだりして取り込んだ情報もある。
学習が功を奏して、難を逃れたこともある。
が、しかし。
またやっちまう。
「何回おんなじこと言わすねん」となる。
「アホちゃうか」と思う。
先日もまた、「意味がないはずない」から入って、意味を問いただし、意味を見出そうとし、ようやく見えてきた意味が自分の好みとはかけ離れていてぐったり疲れてしまう、ということがあった。
敗因は「意味はないのかもしれない」と予期することを怠り、「意味がないならやめておこう」という選択肢を立てそびれ、意味を探しに出かけてしまったこと。
また、気配を察知して意味探しを中断することができず、とことんまで意味を追求して、挙句、残念な結果を得るまでに多くの時間とエネルギーを費やしてしまったこと。
で、そこまで行って、ようやく気づく。
「何回おんなじこと言わすねん」「アホちゃうか」
うん、本当、アホなんだろうね。
知っていても、わかっていても、あいかわらずできない。
目の錯覚の実験みたいなものだ。
2本の線の一方が他方より長く見える、あれね。
線の周りの景色をそろえて相対性をとっぱらい、定規で測るなど科学的な根拠を加えて「2本の線は同じ長さだ」と理解し、心の底から納得しても、元の絵を見るとやっぱり一方だけが長く見える。
このあたり、私が教育というものに対して妄信する気になれない理由である。
教育や学習は、そりゃないよりあった方がいいケースが多いんだろうけど、万能でも無限でもない。
効果があるとしても、それはほんのちょっぴりで、そのたかだかちょっぴりに対して諸々のコストが大きすぎやしないかと、平均よりうんと長く高等教育を受けてしまった身だからこそ思う。
まして、人類を救うとか、世界を平和にするとか、人を幸せにするとか、超壮大なテーマにおいて教育に過度の期待をかけるのは危ないと思う。
「意味がない、ということもあるのかもしれない」と、私は何度学習しても、すぐ忘れてしまう。
痛い目に遭っても、ぐったり疲れても、そのときは反省しても、また同じ過ちを繰り返す。
「いなす」という技を身につけるといいらしいことは知っている。
でも気がついたときには、とっくにいなしそこなっている。
もうこうなったら、学習効果がないのを逆手にとって、意味のないことに巻き込まれても平気になろうと思うのだけど、それもなかなかできるようにならない。
そういう意味で、学習には意味がないように見える。
意味がないからこそ、そこに意味を生み出すことに意味があるのかもしれない。
意味は本当にないのかもしれないし、意味があるとしても今の私にはわからない。
わかったところで、それが私の好みとは限らない。
でもひょっとしたら、いつか私にも意味がわかる日が来るのかもしれない。
そしてその意味は私の好みに近いのかもしれない。
その期待が捨てられない。
これだから私は教育や学習からなかなか足を洗えない。