“デキる”人とそうでない人の違いは、サービス精神があるかないかだと思う。
“デキる”という表現に引っかかりがあるなら「伸びる」「信頼できる」「魅力的な」「おもしろい」などに読み替えてもらえばいい。
私はこのあたりを区別しておらず、「全部おんなじことじゃん」と思っている。
私の考えるサービス精神とは、自分以外の誰かにとっての喜びを生み出すために何かしらの行動を起こすこと。
“精神”といっても、胸に秘めた思いや心の奥底に眠る気持ちのことではなく、誰の目にも明らかな、実際的な行動のこと。
本当のところがどういうつもりだろうと、“気”があろうとなかろうと、それが行動に移されていれば「サービス精神がある」のだし、行動になっていなければ「サービス精神がない」と言わざるを得ない。
「これからの時代に不可欠なスキル・能力を1つ挙げよ」と言われたら、私は「サービス精神」と答える。
いろんなことを知ってたって、ちょっとぐらい英語ができたって、サービス精神がなければ、まぁ何というか残念なことになるだけだし、逆にサービス精神があれば、多少の不足はカバーできるし、克服もできるし、助けも得られる。
いちおう言っておくと、ここで言う「サービス精神」は、共依存や寂しがりや系の人が見返りを求めて起こす行動とは別物。
その意味で、サービス精神という観点において自己の幸せや満足、精神的健康は前提または結果であって、目的ではない、という言い方もできるかもしれない。
サービス精神は、考える経験を通じてしか生まれない。
頭を使わない人がサービス精神を持つということはあり得ない。
サービス精神は、「どうしたら喜んでもらえるかな」とアイディアを巡らせ、喜んでもらう場面をワクワクしながら想像し、アイディアをかたちに変え、実行し、時には壁にぶつかったり失敗したりして、悩み、乗り越え、結果として実際に喜んでもらうという経験を通じて少しずつ根付いていく。
だからサービス精神は創造や思慮深さや思いやりと直結している。
Creativity, Empathy, Mindfulness, Resilience, Compassion, Social action, Optimism, Sense of purpose…
あら、イマドキなキーワード満載。
誰かにサービス精神を持たせようと思ったら、まず育てる側に余裕がなくてはならない。
たとえば親が忙しかったり気が短かったりすると、子どもがモタモタしていることに我慢ができず、子どもから考えるチャンスを取り上げてしまう。
学校における先生も、職場における先輩や上司も同じ。
サービス精神を育てる場で覚えておかなければならないのは、そのプロセスが教育的なものである以上、仕事の完成度や効率はある程度犠牲になると覚悟すること。
育てる側は、やきもきしたり、ハラハラしたり、「自分でやった方が早い」と思ったりするのをグッと堪えなければならない。
「んもう、見てられない」と割り込み、「ああしろ、こうしろ」と事細かな指示を出し、「貸しなさい」と手を出し、仕事を取り上げ、本人の代わりに完成させて「はい、これでよし」と渡してしまっては、せっかくの教育の機会をつぶすことになる。
そうやって考えるチャンスを奪われ続けていれば、思考停止、指示待ち、マニュアル人間になるのは当然である。
ただおとなしくしていれば“正解”が与えられ、言われたことだけを言われたとおりにやるか、できそうになければ放置しておいて、誰かが代わりにやるのを待つ。
子どもや生徒や後輩や部下にそういう習慣をつけさせておいて、急に「そのくらい自分で考えろ」「いちいち聞くな」と怒るなんてメチャクチャでしょう。
そりゃ「言われてないからできません」「やってほしいなら指示してください」「やってやるから教えろよ」ってなるのも無理はない。
サービス精神のある人は、他の人のサービス精神を鋭く嗅ぎつける。
その裏にある苦労や努力をよく知っているから、他人のサービス精神に深く感謝できる。
サービス精神のない人は、そのあたりのことが見えないから、無茶な注文をつけたり、文句を言ったり、安請け合いをしたり、途中で投げ出したりする。
サービス精神は感謝や責任感にもつながっている。
起業、経営、開発、研究、授業、販売、イベント、育児、介護、会話、贈り物、態度、言葉、タイミング etc.etc.
場面を問わず、事の大小に関わらず、あらゆる物事の成り行きには、それに携わる人のサービス精神が大いに影響している。
少なくとも私には、そう見えている。