教育者とは「黒衣」なのではないかと思う。
「黒衣(くろご)」とは、歌舞伎などの舞台上で、そこにいるけど見えないことになっている人のこと。
小道具を出したり片づけたり、演者を助けたり、舞台装置を操作したりする。
舞台を成功させるため、段取りのすべてを把握し、舞台上でいま起きていることの少し先を見据え、備え、ミクロとマクロの両方から舞台を観察し、想定内のことを計画どおりに運びながら想定外のことに対処していく仕事である。
確かにそこにいるのだけど、そしていなければ舞台は成立しないのだけど、いないことになっている人。
私の考える教育者とは、そういう人である。
小道具を出したり片づけたり、学習者を助けたり、教材や教室を操作したりする。
学習を成功させるため、段取りのすべてを把握し、学習環境でいま起きていることの少し先を見据え、備え、ミクロとマクロの両方から学習を観察し、想定内のことを計画どおりに運びながら想定外のことに対処していく仕事である。
黒衣が頭巾を外し、派手な衣装で舞台の中心に立ち、「私を見て」と言い出したら、舞台は台無しなのである。
黒衣が演者たちに向かって「私が言うとおりにやりなさい」「私の言うことを聞いていれば間違いない」と言い出したら、それはもう、かなりまずい。
どの道具を誰に渡すのか、いつ引っ込めるのか、どれが必要で、何が要らないのか。
この先どういう流れになって、どんな助けが必要か。
いま舞台上で何が起きていて、次はどう展開するのか。
演者一人ひとりの動き、観客の反応、劇場の様子。
それらが見えていなければ黒衣は役に立たないばかりか、舞台の邪魔になる。
計画どおりきちんと運ぶ能力がなければ舞台はグダグダになってしまうし、突発的なことに対応する柔軟性を兼ね備えていなければギクシャクしたり、ハプニングに混乱したりすることになる。
つまり、黒衣は演者以上に舞台のことを知っていなければならない。
実際、役者や演出家が黒衣をやることもある。
舞台のことをよく知らない、セリフを読むのがやっと、では黒衣は勤まらないのである。
そんな黒衣がちょろちょろしていたら、演者も観客も、気が散ってしょうがない。
「見えない」ようになるためには、技術が要るのだ。
たとえば英語を教える人なら、英語ができるのは当たり前。
会話もままならない、教科書を読むのがやっと、では勤まらないのである。
学習者の努力が最大限に報われるよう、裏方に徹するためには、技術が要るのだ。
そしてカーテンコールに応える演者のように、学習者が目標に達し、自分の成果を感じる姿を見るのが、教育者にとって最大の喜びなのだろうと思う。