白足袋

「白足袋」について。

先日のTEDxのトーク(参照)からのつながりで、松山大耕さんのこんな記事を読んだ。

京都の言い伝え『白足袋には気をつけろ』の真意とは?(参照

ネット上を見渡してみたところ、似たような、でもちょっと違う使われ方で「『白足袋』には、逆らうな!」(参照)というのがあった。

いずれにしても、ふむ。
「白足袋」かぁ。

「舞妓はん、お茶人、坊さん」の洞察力が鋭いのは疑いの余地がない。
もちろん日々多くの人に接するお仕事だというのはあるけど、こういうことは、数じゃないからね。

「白足袋」を拡大解釈して比喩的にとらえると、「舞妓はん、お茶人、坊さん」を含む芸術家や宗教家だけでなく、経営、教育、医療、サービス…要するに職種を問わず、優れた人の多くは「白足袋」な人たちだと気づく。
そういえば最近の私はなぜか、音楽家の音楽の聴き方や、建築家の建物の見方や、文学者の小説の読み方について話を聞く機会が多い。

つまり、アメリカで研究を行う現在の私の生活の中で、白い足袋を目にすることは一切ないけど、「白足袋」な人にお目にかかる機会はある、ということ。

私は「白足袋」の方々ほどの修行を積んでいないので観察力も洞察力もまだまだだが、憚りながら英語教育に限っていえば、それなりの時間をかけてそれなりに考えてはいるので、“「白足袋」の履きかけ”ぐらいにはなっているんじゃないかと思う。

初めて会う人であれ、会ったことのない人であれ、日本語しか話さない日本人であれ、英語学習者であれ、英語しか話さないアメリカ人であれ、その人が日本語か英語を使う様子を少しでも見れば、その人の言語についてのいろいろが即座にわかる。
こちらにはそれが見えているのに、本人は見られていることに気づいていない。
そのくらいの“白足袋現象”なら日常茶飯事だ。
だから、ありもしない力をあるように見せる人には呆れるし、力があるのにないと勘違いしている人にはおせっかいを焼きたくなるのだ。

自分の言語能力をきちんと把握している人はとても少ない。
たいていは思い込みによる過大評価か過小評価。
せめて英語教育に携わる人や通訳・翻訳などのプロには、自身の言語能力について客観的な“診断”を受ける機会を持ってほしいと思うが、プロだからこそのプライドなのか、その勇気と謙虚さがある人はとてもとても少ない。
いちおう書いとくけど、“客観的評価”と言ったって、TOEICとか留学歴とか、そんなのは全然アテになんないよ。
こういうことは、数じゃないから。

プロでありながら、自分の言語能力を把握していないということは、たとえば英語を教える立場なら、自分の力でどんな学習者をどこまでなら導けるのか、どこからは導くことができないのか、わからないということだ。
たとえば通訳や翻訳なら、自分の訳がどんな場面でどのくらいまでなら適切か、どこからは自分の出る幕でないか、知らないということだ。
これって恐ろしいよね。

「ずいぶん長いこと車検を受けてないけど、そして時々ヘンな音や臭いがするけど、買ったときはピカピカの新車だったから大丈夫だよ」と言われても、そんな車には危なくて乗れないでしょ。
いくらその人が親切で、真面目で、純粋にあなたを助けたいだけだとしても、どんなに明るく元気に、自信満々に「100%大丈夫」と言いきられても、やっぱり乗せてもらおうとは思わないでしょ。
気持ちはありがたいけど、危ないでしょ。
「大丈夫」の根拠がないんだもん。
まぁ百歩譲って近所までならいいけど、遠出は無理でしょ。
そういうことよ。
学習者のみなさん、気をつけましょう。
ちゃんと選ぶ目を養いましょう。

自分の限界を知らず、万能で完璧であるように見せかけ、自分自身にもその暗示をかけてやり過ごしていれば、まぁ目の前の仕事は失わずに済むかもしれないが、いずれ力の及ばない事態が発生する。
そうなれば、迷惑を被るのは周り。
虚勢を張った小人物は本質を見抜かれると困るので「白足袋には気をつけろ」「怖い」というわけだ。
しかし、「白足袋」はビビらせたり取締りをしたりするために存在するのではないと思う。

「ここまでなら自分でできます。」「ここから先は今の自分にはできません。」
それがわかれば、そしてそれを素直に認められるようになれば、その後の学習は飛躍的に進む。
「白足袋」は、学ぶ意欲を持つ者にそのきっかけを与え、自己の実力を知った上で新たな出発をするために必要な力と情報を授けるために存在するのだと思う。

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