未読

みんなはとっくに知っていたのに、私はぜんぜん知らなかったことが、また一つ発覚した。

東アジア出身の女性たちとお茶をしていたときのこと。
隣に座ったJ(韓国)がテーブルに置いたiPhone の待ち受け画面がふと目に入った。

見慣れた水色のメールのアイコンに、見慣れた未読を知らせる赤い印。
そこに見慣れない大きな数字。
よんひゃくはちじゅうさん?

「ちょっと待って、すごい未読の数だね」と言うと、Jは「アカウントが3つもあるからね」と受け流す。
いやいや、アカウント3つぐらいは珍しくないでしょ。
「必要なメールだけ開けて、あとは放っておくから、すぐこうなっちゃうんだよ」。
えぇぇ、あり得ない。

ってなやり取りをしていたら、L(中国)が「なになに?」と入ってきた。
私が「J のメールボックスに、未読が483もあるんだよ」と言うとL はきょとんとして、「私は12,000あるよ」。
とぅえるぶさうざんど?

未読数で5桁なんて初めて見た、とか言っていたら、Y(韓国)が「私は24,000」。
優勝~…って、喜んでる場合じゃないよ。
なに?私がおかしいの?
『世にも奇妙な物語』なの?

もうこうなったら最初に驚いたJの483なんてかわいいもんよね。
文字どおり、桁違いなんだもん。

彼女たちによると、未読メールのほとんどは、買い物した店などから届く、いわゆるDM。
いろんな店から毎日、数百通届くから「しょうがない」のだそうだ。
「要らないなら、登録を解除すれば?」と言うと「いつか要るかもしれないし」「たまに要るし」。
「マメに削除すれば?」と言うと「キリがない」「多すぎて、もうどうでもいい」「未読でも、別に気にならない」。

なに、これはイマドキの容量無制限のメールボックスでは当たり前のことなの?
東アジアの文化なの?
私にとって、未読はゼロが基本。
どうしても溜まってしまうことはあるけど、それでもなるべく早くゼロに「戻す」のが当たり前だと思っていた、と言うと、「あー、それうちのダンナも同じこと言う」「うちも。『未読を放っておくなんて信じられない』って言われる」。
あぁ、なるほど。これはジョシの文化なのか。
なかなかのカルチャーショック。

そうかぁ。
そういえば、「メール見てなかった」とか「返事するの忘れてた」「返事したつもりだった」とか言うのは、女性が多いような気がするな。
かねがね、何がどうなったらそんなことになるのか不思議だったが、そうかぁ、こういうことがあるわけか。

おそらく彼女たちも、これが昔ながらの紙のDMだったら、邪魔になるからある程度まで溜まったら捨てるのだろう。
家族がいれば、注意もされるのだろう。
でも電子なDMは邪魔にもならないし、家族の目に触れることも少ないから、捨てないのか。

それで気がついた。
私はこういう場合の紙版と電子版を区別していない。
紙で邪魔なものは、電子でも邪魔。
紙を捨てるように、電子でも捨てる。
さらによく考えてみると、私は電子版の整理整頓をかなり意識してやっている。
内蔵メモリの容量がどんなに大きくても、クラウドが無制限に預かってくれようとも、タイムラインの情報が色あせるということがなかろうとも、私は使わなくなったもの、古いものは積極的に、日々せっせと削除している。

いくらでも、いつまででも、とっておけるのは私も知っている。
でも、私はわざと捨てている。
とっておけるからこそ、捨てている。

それは、要らないものを傍に置いておいて良いことはないと、私が感じているから。
これは直感的なこと。
私は電子版に、紙版とまったく同じ“質量”を感じ、邪魔なものは邪魔だと感じ、散らかっていれば散らかっていると感じる。
私が気にしているのは、私自身の、この感覚なのだろう。
この感覚をごまかし、麻痺させてしまうと、恐ろしいことになりそうな予感があるのだ。

電子版は「溜めこむ」「とりあえず残す」「いちおうとっておく」が可能であり、容易でもある。
「許されるなら捨てたくない」というタイプの人には渡りに舟。
ひょっとしたら、「捨てないでとっておきたい」という声に応えるのが、電子版の役目でもあるのかもしれない。
だから世の中的には溜めておくのが“普通”なのかもしれない。
ということは、電子版を溜めこまないようにしようと思ったら、紙版以上に気をつけなくてはいけないのだ。
それで私は紙以上にせっせと電子版を捨てているのだろう。
ははぁ、そういうことか。

私はリアルでも、バーチャルでも、身軽でいたい。
執着や欲から解放されて、なるべく自由でいたい。
新陳代謝を滞らせたくない。
そういう思いが、自然と行為に表れていたんだな。
なるほど。

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