何か別のことをしているときになんとなく聞こえてくる音について。
音楽をやっている人の自宅や仕事場へ行くと、
①ずっと音楽が鳴っている。
or
②基本的に無音。静か。
のどちらかである場合が多い。
BGMの効果は病院で患者さんの気持ちをほぐしたり、レストランやデパートで売り上げを伸ばしたり、勉強中に集中力を上げたり、と、いろんな“効能”がうたわれている。
日本人を対象に知的作業時のBGMの効果を調べたある研究(参照)では、そのプラスとマイナスの両面が指摘されている。
まぁ、これを言っては身もフタもないが、人による+音楽の種類によるんじゃないかね。
音楽をやっている人で、①の音楽とともに暮らしている人はBGMにプラスの影響を感じているんだろうし、仕事以外で音楽を聴かない②の人はマイナスを感じているのだろう。
友人の音楽家Nさんは3つめのタイプ。
③テレビのバラエティ番組などを流しっぱなし。
「音楽は仕事以外では聴きたくない。でも人の話し声は聞こえる状態にしておきたい」
音楽をかけていないという点で、ほぼ②と同じだろうと思う。
音楽家に聞こえる音楽は、私のような素人に聞こえる音楽とは違うから、邪魔の仕方も違うのだろう。
ただ、そこで音楽をオフにするだけでなく、代わりに「話し声」をオンにするというのがおもしろい。
無音だとかえって頭の中で音楽が鳴ってしまうから、それをかき消すために「話し声」が必要なのかもしれない。
BackGround Music ならぬ、BackGround Talking というわけだ。
それで気づいた。
私にとってBGT はあり得ない。
音楽家にとっての音楽と同様、私にとっての話し言葉は特別な鳴り方をするものだから。
たとえば私のいる空間にテレビから人が話しているのが聞こえてきたら、私はその話を集中して聞いている。
つまり、その話がForeground になってしまう。
そこに他の人がいて話すなどして、テレビ以外に別の会話が発生したら、そのどちらにも集中しようとして、できなくて、不快になる。
パーティーなど人が集まる場が苦手な理由の一つは、皆がバラバラにしている会話を全部拾いにかかってしまって、できなくて疲れるせいだ。
英語と日本語の同時通訳がかぶせ気味に聞こえてくるのは最悪。
ほぼ拷問。耐えられない。
似たような理由で、BGM も、日本語か英語の歌詞がついているものはやや邪魔になる。
知らない言語なら“聞こえない”からOK。
私にとって、自分にわかる言語でなされている会話が「話し声」になることはないのだ。
そこに会話があれば、私はつい抑揚や間までを聞き取り、意味を読み取り、話者たちの関係性を考え、Sequence (やり取りの流れ)を見ようとしてしまう。
日本語と英語しか知らないのは不幸中の幸い。
Polyglot じゃなくて本当によかった。
そこそこの職業病だと思う。
ただ、自分が会話に参加しているときにはこの聞き方をしていない。
また、他の人の会話が傍にあるときにも、意識して聞かないようにしている。
「なんとなく聞く」はできないので完全に遮断しちゃうんだけどね。
いちおう今のところはオン/オフができているようだ。
このスイッチが壊れたら困るなぁ。
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